なぜ私は親鸞会をやめたのか|反響集

「やめていく人たちは仏教を分かっていなかったのだ」と言われますが本当にそうでしょうか

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私は現役の会員です。支部(一般会員の集まり)に所属してずいぶん経ちますが、かつて所属した学友部での活動を振り返ると、やはりその活動は本来のあり方ではなかったと感じています。

学友部(学生部)は発足当初は純粋に大学生のみの有志による集まりだったと聞いています。仏教の教えを学び求める団体として対外的にも認知されていましたし、教えそのものに誇りをもって堂々と活動していました。それが、いつの頃からか仏教を聞き求める集まりであることを隠すようになり、大学生活の情報や講義情報などを売りにして新入生を勧誘するようになってしまったのは実に悲しいことです。

「宗教に偏見のある時代だから、より多くの人に仏縁を結んでもらうためには仕方のないことだ」と言われますが、教えが真実であるという自信があるのなら、もっと正当なやり方もあるはずです。種々の新興宗教がやるようなことをして欲しくはありません。

また、大学に入りたての学生といった人達のみを対象として、どこかのアパートの一室だけで話をするのではなく、教えの内容そのものをもっとオープンに誰もが議論できる形で提示することは出来ないものでしょうか。学術的で公正な議論ならば、大学も門戸を開いてくれるでしょう。親鸞聖人の教行信証も当時の学術書の形式で書かれたものでした。確かに、真実そのものは証明も反証も出来ませんし、信仰と学問とは相いれない部分もあります。しかし、仏教が真実である「可能性」を世の中で一般的に議論されるやり方に則って明らかにしていくことも出来るはずです。高い教養を持つ人々からの論難にでもしっかりと答え得る知的誠実さが今、必要とされているのだと思います。また、教えを前面に出した活動にこそ誇りが生まれるのではないでしょうか。

以前、4月頃だったと思いますが、学生に話をしてほしいと頼まれ、仏教の話をしようと入念な準備をして行ったことがあります。しかし、実際に行ってみれば「話はいい」「10分くらいでどんな企業でどんな仕事をしているかを説明してほしい」といったことを告げられ、まるで「お前の話ではなく肩書に価値あるんだ」と言われたようでショックでした。ある学生が長々と私の肩書きについて説明し始めましたが「やめてくれ」と思わず遮っていました。まるで私が社会的地位を求めて今の会社に入ったかのような紹介で心外だったのですが、私の職業がなぜそこまで問題になるのでしょう。

学友部では講師部や親友部(事務職員)といった会の職員に対して一般の職業を「世間の仕事」と一段低く見る傾向があります。にも関わらず、新人に対してはことさら有名企業の社員や弁護士、公認会計士といった肩書をもち出したがるのは、やはり社会的権威の助けを借りようとする意識の表れなのでしょうか。世間の荒波にのまれ社会的責任を背負いながらも真面目に求道している職業人を心から尊敬してのことならばいいのですが、「朝から晩まで世間の欲に振り回されている」などという表現を今まで何度も講師の口から聞いてきました。

教え以外の様々な要因によって少しでも相手を安心させたい、というのは分かりますが、もっと仏教の教えにこそ自信をもつべきだと思います。また、スポットを当てるべきなのは、目立たないところで人知れず頑張っている人々のはずです。

私自身が学友部の活動によって仏教と出会い、また過去に活動に関わってきたことを考えると、このような意見を述べるのは胸中複雑な思いがあります。しかし、今の布教のやり方によって教えに対してまで不信を持つ人が多くいる現状を見るにつけ、こういう形であっても声をあげなければならないと思った次第です。おそらくは、仏教を分かっていない一会員の意見、と受け取られるのでしょう。しかし、常に対話していかなければならないのは仏教を知らない多くの一般人だということを忘れないで欲しいと思います。

そして、もう一つ言いたいことがあります。

この「なぜ私は親鸞会をやめたのか」というサイトにも反論サイトがあるようですが、そこに書かれている内容は会員である私が見てもとても誠実さが感じられるものではありません。上からものを言うような態度や批判者への個人攻撃に終始する姿は、同じ会員として恥ずかしい限りです。種々の非難に対して、事実と異なるのならば本当の事実を、理由があってやっていることならばその理由を一つ一つ丁寧に答える誠実さを見せて欲しかったと思います。内輪の人間にだけ通用するような独特の論理を振りかざしても、誰の心に響くというのでしょうか。

それにまるで、会の方針についていけない人間は仏教を聞く資格はない、と言っているかのようです。「やめていく人たちは仏教を分かっていなかったのだ」と言われますが本当にそうでしょうか。伝える側の責任、伝える側が変えていかなければならないことも非常に多くあると思います。

仏教を分かっていない私のような人間が意見すること自体問題視されるかもしれません。しかし、現場の声というものもあるはずです。以上、何かのきっかけにでもなればと思って書かせて頂きました。

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