なぜ私は親鸞会をやめたのか|反響集

無駄なことなど決してありません。

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元会員です。
管理人様より私の体験に基づく投稿をと勧められたので、少々書いてみることにしました。
今回はまず最初に、親鸞会の教義について簡単に書きます。
親鸞会の活動が時として妄信的になるのは、その教義に理由があると思うからです。
あまり親鸞会を知らない人が親鸞会を理解する手がかりになればと思います。

次に、教義に基づく活動として出てくる勧誘について書きます。
すでに多くの人が勧誘方法については詳細に書いていますので、あまり具体的なことは書きませんが、勧誘時の様々な問題点と親鸞会の教義との関連について少々ふれます。
現会員さんの中で、私の問題提起を心に留めて下さる方がいらっしゃれば幸いです。

最後に、親鸞会を辞めた人や辞めようと思っている人たちに、私なりのメッセージを書かせていただきます。


【親鸞会の教義について】

親鸞会で教えられていることについては、ご存知ではない方もいらっしゃるでしょう。
ですので簡単に教義を説明しておきます。

一言で言うなら、親鸞会の教義とは、
「全ての人は阿弥陀仏の本願によって救われる」
このことです。

もう少し詳しく書くと、
「阿弥陀仏という仏様が、全ての生きとし生けるものを絶対の幸福に救い上げると約束している。だから我々は救われるのである」
ということです。
これだけの説明で納得できる方がいるとは思えませんが、もし納得した方がいらっしゃったら、あなたは信心決定しています。おめでとうございます。
ほとんどの方はなんのことやらわからないと思いますが、これが親鸞会の教義の根幹です。

多くの会員さんが思っているような、極めて論理的な教義ではないことは言うまでもありません。
肝心要の“阿弥陀仏の本願”は、論理でわかるものではなく、体験してみなければ理解できない性質のものだからです。
しばしば、「親鸞会の教えは論理的である」との主張を聞きますが、私はそんなことはないと思います。
論理的な教学は、教えが正しいと思い込むための手助けに過ぎません。

ただ単に「全ての人は阿弥陀仏の本願によって救われるのだ」と言っても、何のことやらわからないどころか、それが本当のことだなどとも思えないので、「本当かもしれない」と思わせるために、お釈迦様や親鸞聖人の努力によって、論理的に組み上げられているのが教学です。
たとえるなら、そのままでは飲みにくい薬をオブラートに包んでいるようなものです。
体験するまで理解不能な阿弥陀仏の本願があくまでも根幹で、論理は本質的なものではありません。
ですので、私は教義についてアレコレ指摘する気はありません。
教学的な知識もありませんし。

「阿弥陀仏の本願」が真実かどうか、それについてここで議論するのは無意味でしょう。
それこそ信仰の問題であり、信心決定して真実だと知った人もいれば、そんなもの信じられるかと頭から相手にしない人もいます。

一応、誤解のないよう付け加えておきますが、
「阿弥陀仏の本願を体験すること」=「マインドコントロール等で信じ込んだ」
ではありません。
思い込みや洗脳といったものとはまた別の、極めて宗教的な体験です。
体験しないとどうにもわからない類のものです。

ここでわかっていただきたいことは、親鸞会の教義の根幹は、
「体験するまで理解不能な阿弥陀仏の本願」
であるということです。

体験するまでは本当かどうかなんてわかりません。
実際、信心決定するまでは「阿弥陀仏の本願なんて本当にあるのだろうか?」という疑念は消えないと教えられています。
そういう意味では、信心決定していない人は、幹部であろうと一般会員であろうと、心のどこかで、意識的あるいは無意識的にしろ、
「本当に親鸞会で活動を続けていていいのだろうか?」
という疑いを抱えています。

この疑いの心が求道心を超えると、会を辞めていくことになります。
ですので親鸞会においては、この疑いの心を可能な限り抑え込んでいけるよう、組織的にも個人的にも努力をするわけです。

たとえば教学もその一つです。
他の宗教と議論になった際、論理的に論破できたなら、
「やはり親鸞会の教えは正しいのだ」
と思うのはごく自然なことでしょう。
もちろん、他宗教を論破したからといって、阿弥陀仏の本願が正しいと証明されたことにはならないのですが。

高森会長への忠誠が賞賛されるのもそうです。
阿弥陀仏という理解不能な存在は信じられなくても、目の前で必死に説法する人のことは信じられます。
「声がつぶれるまで叫び続けるなんて、本当のことでなければできるはずがない」
高森会長を通して、阿弥陀仏の本願が真実であると確認するわけです。


【親鸞会を信じていますか】

しばしば誤解されますが、
「信心決定すると疑いの心が消える」ということと「疑いが消えたときに信心決定する」のは違います。
親鸞会でもそれは違うことであると教えられているはずですが、どうもこの誤解は根強いのか、
「疑念こそが信心決定を妨げている最大の要因である」
とされる雰囲気があります。
まあ確かに、疑念を抑えきれなくなれば脱会するしかないので、当たらずとも遠からずではありますが、組織的に疑念を抑えようとすると、どうしてもマインドコントロールじみた手法になってくるのは否めません。

例えば親鸞会会員以外との関わりを極力無くそうとするのも一つでしょう。
阿弥陀仏の本願のことなど頭から信じていない人と話をすると、
「やっぱりそんなものないんじゃないだろうか・・・」
という疑念がわき上がって来る可能性があります。
だから排除する。
阿弥陀仏の本願が真実であると本当にわかっていたら、排除する必要などどこにもありません。

大学での勧誘時に、組織名を隠して活動するのも、疑念の裏返しです。
「仏教だ、宗教だと言えば、アヤシイ団体だと思われるに違いない」
つまり、自分たちは「アヤシイ団体」に見えるという自覚があるわけで、本当にアヤシクないとわかっているのであれば、
「我々親鸞会はアヤシクなんかない!」
と堂々と名前を挙げて主張すればいいはずです。

親対策、兼部対策などもあるようですが、何故に親や他の同級生を頭から「反対勢力」と想定しているのでしょうか。
「仏教のサークルだと親が知ったら反対してくるに違いない」
「他のサークルの友達が知ったら、アヤシイ宗教だと言われるに違いない」
経験的にそう判断したのかもしれませんが、事実無根の反対ならば、堂々としていたほうが余程好感が持てます。
まさか、
「どうせ我々はアヤシイと思われるにきまってるんだ・・・」
などと卑屈にはなっていないと思いますが、
「真実の仏法は簡単にはわからない。誤解する人がほとんどだ」
と主張するのも少々思い上がっているように見えます。

隠したり、故意に誤解させるような表現でごまかしたりせず、正々堂々と、
「我々は親鸞聖人の教えを学んでいる真面目な宗教団体である」
ということを何故主張しないのでしょうか。
小細工を弄して信用を失うよりも、時間はかかっても社会的な信用を得ることのほうが、親鸞聖人の教えを広めるには有効だと思うのですが。
何故批判されるようなことを敢えてやり続けるのか、理解に苦しみます。

かつて私が学生だった頃、新入生の勧誘についての会合で、
「今までのやり方では(大学当局や父母に)敵視されるばかりです。反対されないような方法を考えるべきではないでしょうか」
という主旨の発言をしたところ、たちまち幹部講師の方に叱られ、
「どんなやり方をしても反対されるのだから、非難など恐れずにやらねばならない。もっと反対が厳しいところがある」
ということで取り合えげられませんでした。
後にその大学での勧誘は、大学側の取り締まりが厳しくなり、一切行えなくなりました。
私は先のことを考えて提案したつもりだったのですが、わかってもらえなかったようです。

真実の仏法をあきらかにしようとすると、非難の嵐が起こるものだと、親鸞会でそんなふうに言われているのを聞いたことがあります。
もちろん、いわれない中傷を受けることもあるでしょうが、世の中そんなに頭の悪い人たちばかりではありません。
「親鸞会に対する批判者は悪者だ!」
と短絡的に決め付けず、何故批判されるのか、批判されずに進める道はないのか、さらには好意的に認められるにはどうしたらよいのかを考えてもらえたらと思わずにはいれません。

そういう自己浄化能力が親鸞会にあるとわかれば、誰もアヤシイ団体だとは思わないはずです。
アヤシイ団体だという誤解がなくなることは、親鸞聖人の教えを広める上でも大いに役立つはずです。

私には、問題視される親鸞会の勧誘方法の全てが、
「自分たちはアヤシイんじゃないだろうか」
という疑いの裏返しのように思えてなりません。

自分の心にある疑いの心を、よく自覚すべきです。
自分自身の求道にとっても、それはプラスになります。


【脱会について】

親鸞会においては、脱会者のことを、
「敗残者である」
と呼んで非難するという話がちらほら聞こえてきます。
私自身の経験から考えると、これは少々極端な例であると言わざるを得ません。
そのような非難は、会員間で行われるものではなく、例えば幹部の立場にある人や、機関紙などの中での表現に限られているように思われます。
普通の会員が、脱会者のことを非難することはあまりありません。

むしろ、辞めていった人たちのことを語るときは、どこか寂しそうに、かつ後ろめたそうな表情で、
「xxさんか、どうしてるかな・・・。またご縁があるといいけど」
というようなことを言う場合がほとんどです。
余程の問題を起こさない限りは敵視まではされません。
実際、それまでの間は仲良く一緒にやってきた仲ですから、手のひらを返したように非難するというケースは珍しいことでしょう。

では何故、幹部や機関紙は厳しく脱会者を非難するのでしょうか。
それはもちろん、残っている人々が雪崩式に脱会するのを防ぐためです。

繰り返しになりますが、親鸞会会員は誰もが、信心決定するまでは心に疑いを抱えています。
親しい人が脱会したとなれば、その疑いの心がむくむくと頭をもたげかねませんので、上の立場からは押さえ付ける必要があるのです。
ましてや幹部クラスの会員が脱会した際にはそうせざるを得ないのでしょう。
残る会員に与える影響は大きくなりますから。
脱会者は親鸞会の教えに疑問を持って辞めたのではなく、脱会者本人に問題があったのだと、そう言わなければならないのでしょう。

もしかしたら、非難を口にする幹部の方自身も、疑念を感じてしまうことがあるかもしれません。
公然と脱会者を非難すれば、自分自身は簡単には引き下がれなくなりますから、自分に鞭打つ気持ちで非難している人もいることでしょう。
あくまでも心に余裕がないための非難であり、本心から脱会者のことを非難しているのではないと、私は思いたいのです。
少なくとも、私自身が脱会者について語るときには、そういう気持ちでした。

もしも脱会を考えているが非難が怖いという方がいらっしゃるなら、その非難はあなた自身の人格を否定するものではありません。
上記の通り、残る会員の疑いに根付く非難ですから、必要以上に怖がらなくてもいいと思います。

脱会する際に最も悩むのは非難ではなく、人間関係ではないかと思っています。
例えば新入生のときに勧誘されて、大学3年、4年まで活動していたような場合、親鸞会関係者以外に友人が居ないという状況がしばしば有り得ます。
疑いを抱く環境を徹底的に排除するのが親鸞会ですから、気が付けば自分の友人は全て親鸞会会員という人が多いはずです。
大学卒業後に親鸞会や関連会社に就職した人はさらにその傾向が強くなります。
そうした人は会員同士で結婚したりもしますので、友人どころか家族、職場の同僚も含めて親鸞会会員です。
こうなると、たとえ脱会しようと思っても、ほぼ脱会は無理でしょう。
まあ、だからこそ、ある程度の歳になると会員同士の結婚が推奨されたりもするわけですが。

会員だった当時、私も何人も脱会したいという人の対応をしてきました。
私自身、疑いの心はいっぱいでしたので、そうした人の気持ちは理解できていたつもりですが、脱会したいという人が必ず言っていたことは、
「私はxxさんのことが大好きなんです。お別れするのは嫌なのですが・・・」
毎日のように顔をあわせて、一緒に全国各地に出かけて、寝食を共にしていれば、別れがたい気持ちを持つのも当然です。
ましてや親鸞会の外には親しい友人もいないような人の場合は、なおさらでしょう。
不安もあるでしょうし、寂しかったり、悲しかったり、あるいは怖かったりもするでしょう。
そういう隔絶された人間関係に意図してしてきたのですから。
私自身も多くの人を、そうした環境に導いてきました。
今は申し訳なく、思います。

人間関係が不安で脱会をためらっている方へ。
確かに辛いことだとは思いますが、あなたの気持ちを理解してくれる人は必ず居ます。
例えばご両親、昔の友達、あるいはあなたと同じように悩みながら脱会した人など、決していつまでも孤独が続くわけではありません。

今まで親鸞会で費やした時間は何だったんだと、無気力感に捕らわれる方もいらっしゃるかもしれません。
無駄なことなど決してありません。
親鸞会が真実ではなかったとしても、その全てが悪意に満ちているわけではありませんから。

役に立つことを学んだり、身に着けたりしたはずです。
反面教師にすることすらできます。
前向きに考えましょう。


【さいごに】

親鸞会についてよく知らないという人には、多少なりとも親鸞会についてわかっていただければ嬉しく思います。
極端なカルトでもなければ、極めて真面目で健全な宗教でもない、中間に親鸞会は位置していると思います。
私としてはかなり好意的に書いたつもりですが、親鸞会について批判していることには変わりはありません。
願わくば問題点を見直し、健全な団体になってくれれば、こんな投稿文を書いた甲斐もあります。
また、親鸞会から脱会しようと悩んでいる方や、ご家族が会員で心配している方、脱会したものの孤独に苦しんでいる方の、多少なりとも励ましになればと願っております。

長文にお付き合い下さりましてありがとうございました。

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