なぜ私は親鸞会をやめたのか|反響集

親鸞会がいかに真実を伝えている団体であるとしても、学友部で行われている勧誘方法は、やはり悪質であり、早急に改められねばならない

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目次

1.はじめに
2.学生時代の活動とそれに対する思い
3.なお親鸞会を続けていく理由
4.学友部の活動内容にはやはり問題がある
5.大宇宙の真理と断言することについて
追記:大学4年生のときの体験

1.はじめに

現会員の1人です。

興味深く読ませていただきました。親鸞会を退会されたということで、現会員としては寂しく思いますが、私はそのことについてとやかく言うつもりはありません。

私も会員になって十数年経ちますので、管理人さんと同世代かと思います。もしかしたら面識もあるかも知れませんね。学生時代の活動内容はほぼ同じです。学友部ではサブリーダー、青年部でも準幹部といった立場で、組織改編で青年部がなくなってからもそうでした。現在は任命幹部ではありませんが、一貫して真面目に活動していると周囲には思われてきていると思います。形の上では、ずっと幹部であったと言ってもいいでしょう。

しかし社会に出て、あるきっかけから学生時代の活動内容への疑問が大きくなり、それ以来「浄土真宗親鸞会を考える ジャンヌ」や2ちゃんねる等、親鸞会を批判するサイトを定期的にチェックしておりました。このサイトも、2ちゃんねるで存在を知りました。

私の思いは、簡潔に言えば「親鸞会は、教義自体は特におかしいとは思わないが、学友部の活動内容には多くの問題点がある」というものです。

学生時代には何度も「辞めたい」と考えましたが、現在の支部での活動内容には特に不満もないため、とりあえず現在は親鸞会に在籍し続けるつもりでいます。

ただ、時おり学生時代を振り返ると「自分は何故、あんなおかしな活動にのめりこんでしまったのか…」という後悔と自責の念を抑えきれず、せめて現在学友部で活動されている皆さんには自分のような失敗は繰り返して欲しくないと思い、また卒業生として、同じ会に所属している者として、学友部には活動方針をいま一度見直してもらいたい、と切に願わずにおれません。

しかしご存じのとおり、会を批判することはタブーとなっているので、現在お世話になっている支部長さんや上司の会員さんにはもちろん、仲の良い同期の人たち等と本部会館でたまに会ってもなかなか言い出せずにきていました。現役の学友部員や学担講師との接点もないし…。

管理人さんが学友部の勧誘方法の是非について記述されているのを読んで、私の学生時代の体験や感じたこと、意見をもサイト上で公開していただけたら、という思いで書き始めましたが、生々しい記述が多くなってしまったこともあり、公開するには不適切な部分が多々あるため、公開のほうは差し控えていただくようお願い致します。(管理人注・後日投稿者ご本人から掲載の許可を頂きました)ただ、現会員の中にもこんな考えの人がいるのだなあ、と少しでも思っていただければ有難いです。思いがけず、かなりの長文になってしまったのは申し訳ないのですが…。

私は親鸞会にご縁があってよかったと思っています。もちろん親鸞聖人の教えに巡りあえたことが一番ですが、それ以外にも「時間の効率的な使い方」や「常に他人の気持ちに配慮しようという習慣」が身についたことは現在に至るまで大きく役にたっていますし、親鸞会で出会った人たちには、人間的に素晴らしく、素直に尊敬できる人が多くいます。彼らから学べることはそれこそ無限にあります。

そうであるが故に、親鸞会の問題点が見えてくると気になって仕方なく、悪いところは何とか改めて欲しいと願わずにおれないのです。

私が親鸞会にご縁があったのは、たしかに学友部のあの勧誘によるものです。「新勧のご恩は新勧で返す」と学友部では言われてましたが、やはり、それとこれとは別問題と思います。

この文章を書くにあたり、自分の過去をいくらか客観的に見直し、気持ちの整理をすることができました。このような縁をいただけたことに対しての感謝の思いも述べさせていただきたいと思います。

※私が学生のころは「学友部」ではなく「学生部」といわれていましたが、「学友部」で統一しました。

2.学生時代の活動とそれに対する思い

親鸞会とご縁のある前に多少キリスト教に触れる機会があり、その影響で「生命の重さ」「生と死」「戦争と平和」といったテーマに強い関心をもち、いろいろ人生論を読んだり、課外活動で聖書の勉強会に参加したりしていました。

しかしキリスト教の神がどうも信じられなかったことと、隣人愛を説きながら十字軍などで異教徒を大量虐殺してきている歴史から、次第にキリスト教には不審をもつようになっていきました。

一方、もともと仏教には関心をもっていました。お経を読んでもほとんど意味は分からないながら、何か人生について重要な、尊いことが教えられているのでは、という直感がありました。

受験勉強中には、不安定になりがちな精神状態を落ち着ける意図もあって、般若心経を暗誦したり、座禅の真似事をしたり、創価学会の本を立ち読みしたりしていました。

ただしいずれも一人で少し本を読んだ程度で、「勉強した」とまではいえません。

家の宗旨は浄土真宗ですが、真宗についてはたまたま本を読もうとも思わず、正信偈の存在すら知りませんでした。つまり予備知識が無く白紙の状態で、親鸞会に接することになったわけです。

私は大学の入学式の直前に勧誘を受けました。「人生の目的について研究している、哲学のサークルだ」と言われ、バインダーを使用した説明を聞いて「今時こんなテーマをまじめに考える大学生もいるのだなあ」と感心しました。

しかしその場で入部を迫られ、入部金と1ヶ月分の部費を払うように言われたときは、そのあまりの強引さに驚きました。「とりあえず1ヶ月聞けば分かるから。他のサークルは5月からでもじゅうぶん間に合うから」と言われ、入部すると言わなければ帰してもらえそうになかったので、しぶしぶお金を出してその日は帰りました。

結局、他のサークルは全く覗くことはなかったので、どこのサークルでも程度の差こそあれ、こんな強引な感じで勧誘してるのかな、と思い込んでいました。

それ以来ほぼ毎日のように話を聞き続け、2週間ほどして初めて仏教のサークルと知った時は、かえって嬉しく思ったのを覚えています。「死の問題が解決できる」と聞いて、そんなバカな、とも思いましたが、聞くだけ聞いてみよう、もし本当ならすごい、と、ますます興味をひかれました。

不信感をもっていたキリスト教を大胆にも邪教と斬り捨てているのが痛快でした。キリスト教と仏教を哲学・思想的に比較する話を聞いたときは、感動で身体が震えました。また、「正直者がバカを見る」世の中の現実に憤りを感じていたので、因果の道理の話にも感動しました。三世因果については、証明は不可能ながら、なぜか、わりとスンナリ受け入れることができました。

後生の一大事や阿弥陀仏の存在については反発を覚えましたが、先輩から「仏教は他の宗教と違って、信じられないことは無理して信じなくてもいいんだよ。疑ったままでいいから、縁をもって続けて聞いていくことが大事なんだよ」と言われ、そんなものかな、と思いました。当時私は、そういった疑問よりも信心決定の体験と絶対の幸福の世界に対する憧れのほうが強く、「信心決定の体験をすればハッキリ解るのであれば、客観的証明の不可能な疑問は棚上げにしておいて、さっさと信心決定してしまうほうが手っ取り早い」と軽く考えていました。他の人に尋ねてみたことはないのですが、私以外にもそう考えた人は多いのではないでしょうか。実際、新入生の疑問にいちいち答えていては収拾がつかなくなるので、そう思わせるフシはありました。

「まじめに聞いていけば誰でも確実に信心決定できる」と言われ、2年生以上の先輩は全員信心決定していると聞かされていたので、自分も簡単に信心決定できると思ったのは、至極当然のことでしょう。

なお後に「1年以内に信心決定できると言ったじゃないですか」と先輩に聞くと、「一念で信心決定できると言ったんだよ」という答えが返ってきました。

明らかに詭弁ですが、学友部では、これも配慮とみなされていました。もっとも、私も2年生以上になって1年生に同じことを聞かれたとき、同じ言い方で答えていたので、同罪ではあるのですが。

5月の連休の合宿で初めて「高森先生という人の説法を聴聞しに、毎週全国各地を飛び回る」と聞かされたり、6月になって浄土真宗親鸞会という宗教団体への入会を勧められたりと、驚愕の事実が少しずつ明らかになっていきました。その度に「そんなこと聞いてないですよ!」と文句を言っても、「最初から言っていたら、キミは続けて聞くようになっていたか!?これは配慮なんだ」という答えばかりが返ってきました。

「苦労して聞けば聞くほど、早く信心決定できる」と説得され、勧められるまま毎週の聴聞に出かけるようになり、親鸞会に入会し、ほぼ毎日ある平日の部会にも欠かさず出席し、下宿で一人になっても欠かさず勤行し、教学を勉強し、親鸞会発行の書籍を何度も何度も拝読し、聴聞費用や御報謝のためバイトをやりまくり…結局、そのまま親鸞会にドップリ浸かる生活に入っていきました。

先輩たちが全員信心決定しているというのが実は嘘であり、一生かかっても信心決定できるかどうか分からないものだ、というのがようやく明らかになったのは、1年生の秋ごろでした。専任講師たちもどうやら信心決定してないらしいぞ、と知ったときは、とてつもなく暗い気持ちになりました。早く信心決定してしまって、あとは他のサークルを覗いたり、好きな趣味などを楽しみたいと考え、親鸞会以外のほとんど全てを犠牲にしてきたのに、こんな状態がこれからもずっと続くとは…。

「先輩たちは全員信心決定している」という嘘も配慮のため、とやはり言われましたが、裏切られた、という気持ちは、どうしても拭い去れませんでした。

ちょうどそのとき後期勧誘の時期に入り、1年生の私たちもアニメ頒布(1本15,000円する親鸞聖人のアニメを頒布する活動・光戦と呼ばれた)や勧誘に参加させられることになりました。「破邪顕正が最も尊い宿善になる」「未信だからといって法を説かないのは間違い」と言われハッパをかけられましたが、裏切られた思いから、どうしてもやる気が出ませんでした。内向的な私にとって、人に話をしたり、勧誘・説得したりするのはそもそも苦手だったので、苦痛はなお増すばかりでした。

しかしそれでも、親鸞会を離れることはおろか、活動を少しでも緩めることに対してすら、異常なほどに罪悪感を感じるようになっていたので、自分の心に嘘をついて、無理して活動についていっていました。いま思えば、ここにいわゆるマインドコントロールの作用が表れていたと思います。

年が明けて次の年度になり、新勧が始まりました。精神的・肉体的苦痛は前年の比ではありませんでした。私たちの学年は例年に比べて入会者が多いと言われていましたが、この新勧の中で1人2人と脱落していき、気がついたときには半分以下に減ってしまっていました。

私にとってショックだったのは、最も仲の良かった同級生の1人が、その年の暮れにご縁が離れていったことです。活動を休むことが次第に多くなり、やがて顔を見せなくなって電話も通じない状態になりました。聞くところによると、親鸞会の人には絶対に誰にも会いたくないと言い、毎晩浴びるほど酒を飲んで酔いつぶれ吐きまくっている、とのことでした。

先輩たちからいつも厳しく言われて辛い、と訴えていたのに、同級生の友達である私は何の力にもなってやれなかった。あのとき、温かい言葉のひとつでもかけてあげていたら…等の後悔に襲われ、自責の念で心が引き裂かれる思いでした。

と同時に、「すべての人が救われる教えと言われるのに、なぜ脱落者が発生するのだろう」という疑問も湧いてきましたが、もうその頃には私も、そんな疑問を先輩にぶつける気力がなくなってしまっていました。

学生時代の残りは、活動で体は忙しく動かしていても、気持ちの上では心底ヤル気になれず、かといって辞めることもできず、といった中途半端な状態がずっと続いていました。時々、一時の感情で「こんな状態ではいけない」と発奮することもありましたが、1年生のころのような純粋な思いに戻れるはずもなく、しばらくするとまた惰性に戻ってしまいました。

結局私は、世間一般の大学生がいうところの「遊び」や「趣味」といったものはもちろん、親鸞会に関する以外のことをほとんど全く経験することなく大学時代を過ごしました。

管理人さんと同様、私もボランティア活動に行きたいと思ったこともありましたが、親鸞会の行事を優先せざるを得ず、叶いませんでした。

親鸞会の人たちが人間的にいい人ばかりだったのは良かったのですが、親鸞会以外で「友達」といえる人が大学内で1人もつくれなかったのは勿体ないことだったと思います。非常に狭い世界にとどまっていたように思います。また、のちに進学・就職のとき、欲しい情報がなかなか得られず苦労しました。

学友部では、自分の気持ちに嘘をついて耐えていかねば活動についてゆけません。そこで次第に、自分の考えていること・思っていることを正直に表明することができなくなっていきました。

自分をさらけ出しての人間同士の魂のぶつかり合い、といったものを、私は少なくとも大学時代は、全く経験することなく過ごしました。そのため精神的な成長が遅れたようにも感じますし、そんな時にできた「友達」が、本当の意味での友達と言えるのかどうか、疑問の残るところです。

3.なお親鸞会を続けていく理由

こんな活動が続いていくのなら、青年部移籍後は仕事の多忙などを言い訳にして、次第に活動から離れていき、いずれ親鸞会を辞めてしまおう、と思っていました。しかし現実には辞めませんでした。その事情と理由を以下書かせていただきます。

まず青年部に移籍したとき、同じく親鸞会の人たちではあっても、これまでとは全く違う顔ぶれになったため、気持ちの上でいい切り替えができたのもよかったと思います。

青年部では本人の自主性を尊重するという方針であったため、平日の行事参加はおろか高森先生のご法話の参詣についてすら、学生時代のように執拗に勧誘・説得をされることは全くなくなりました。心中はともかく外面上は「うるさく言わなくても活動する真面目な奴」という評価が得られていたためでもあったでしょう。実際、それまでについた習慣もあって、ほとんどのご縁に参加していました。

やがてある地区の文化講座のチラシの作成・配布、会場の設営等の活動を受けもつことになりました。チラシには「親鸞聖人のお話」「主催:親鸞会」と明記されており、社会人(主に年配の方々)を対象にしていることもあって、無理な勧誘・説得をすることもありませんでした。

つまり学友部のような、宗教であることを隠して勧誘する等、社会的なモラルに反してでも布教活動をする、精神的・肉体的に破綻する危険を冒してでも無理矢理激しい活動をする、ということが全くなくなり、「親鸞会を辞めたい」という気持ちは、私の中で徐々に弱くなっていきました。

学友部でもこのようにモラルを守って無理なく、個人の意思をちゃんと尊重する形になっていれば、脱落者もずっと少なかっただろうし、私も精神的に不安定になることはなかっただろうに……。本当に残念なことと思わずにおれません。

また青年部で新たに知り合った人たちと酒など飲みながら話していると(学友部では飲み会など全く縁がなく、絶対に避けるように指導されていましたが…)、学友部でサークルの部長などをやっていたような人の中にも、自分と同じように学友部での活動がイヤだった人の多くいることを知ることができ、孤独感から解放されて心が休まった思いがしました。

講師の悪口を陰で言いあっている青年部員をふと見たこともあります。「講師の批判は謗法罪であり無間業」と教えられてきており、学生時代から幹部として率先してバリバリ活動していて、私から見れば超人的な人たちだっただけに大ショックでしたが、同時に「この人たちにもちゃんと、人間らしい心があったのだな」と思い、ホッとしました。本来は陰口はイヤラシイ行為なので、ホッとするのも変な話ですが。

(こんな感じだから、「青年部は堕落した人間の行くところだ(だから顕真学院に行け)」と当時の学友部では言われていたのでしょう。退会者を罵倒するのと同様、仏法者・宗教者としてあるまじき発言と思いますが。)

もともと教義自体はおかしいとは思っていないので、高森先生の御法話を聴聞することは苦痛を感じるどころか、むしろ喜びでさえあります。また、お年寄りの方々がチラシを見て文化講座に参加され、喜んで仏法を聞いているのを見て単純に嬉しくなり、「チラシを配ってよかったなあ」と思ったりもしました。

もっとも学生時代に抱いた数々の教義上の疑問は未だ棚上げ状態のままであり、あらためて誰に聞いても納得のいく回答が得られず、これから自分なりに検証していく必要があるとは思いますが。

ここ数年は仕事が忙しくなったことなどから、高森先生の御法話には3〜4ヶ月に1回の割りでしか参詣できなくなりました。教学講義には2年以上ご縁がもてていません。

それでも現在の支部長さんや上司の方からは理解していただけており、不当に責められるようなことは全くなく、無理なく求めていける環境にあるといえます。

管理人さんと同様、私も、信後の喜びを明言される方と直接お会いしたことはありませんし、このまま続けて本当に信心決定できるのか、という疑いや迷いは確かにあります。しかし、現在私の知る限りにおいては、死の問題を解決した世界と、そこに至る道をそれなりの説得力をもってハッキリ説いている教えは他に見当たらないのです。

親鸞聖人を尊敬する気持ちは確かにありますし、教学的に難しいことはよく分からないのですが、親鸞会では聖人の教えどおり説かれていると思っています。高森先生にはついてゆけない部分も感じてはいますが、基本的に嫌いになったりはしていません(もっとも、無条件服従など絶対に考えられませんが…)。
そこで親鸞会は辞めることなく、とりあえずいまあるご縁を保ったまま、無理せず続けていこう、という気持ちに現在は落ち着いています。

「全然教えがわかっていない、その程度の心がけでは絶対に求め抜けないぞ」と、熱心な会員さんからは叱られそうな状態ですが、無理な活動を続けて精神的・肉体的にマイッてしまったら、かえって良くないと思います。学生時代に比べたらずいぶん不真面目といえそうですが、仕方のないことでしょう。

「教えがわかっていない」からこそ、わかるまで続けて聞かせていただきたい、という気持ちもあるのです。親鸞会で教えられていることが百パーセント真実だと思うから親鸞会にいるのではなく、真実かどうか確かめたいから親鸞会を続けたいと思うのです。

4.学友部の活動内容にはやはり問題がある

学友部の勧誘方法、すなわち宗教であることを明らかにせず「哲学サークル」などと偽って勧誘するやり方について、私も当の学生時代、外部からの非難があることは聞いて知っていました。しかし「ひょっとしてこれは本当は、いけないことじゃないか?」と思うことがあっても、「親鸞会顕正虎の巻(親鸞会の学友部向け勧誘マニュアル)」にあるように、

だましているのは私達以外の世間の人、他の人が如何に巧妙な手でいかにしょうもないことでだましていることか。

ウソをつくのはつらいが、つらい中をやってゆかねば自分の仏縁も他人の仏縁も深めることは出来ない。

(『親鸞会顕正虎の巻』◎カメレオンアーミーにならなければならない より)

というようなことを会合などで講師から言われ、これも仏道修行だ、ということで、自分の思いを抑えこみ、私も他の人たちと同じように勧誘に参加していました。けれどもどんなに抑えようとしても、嘘つき勧誘をしていることの罪悪感はどうしても抑えきれず、いつも気になって仕方がありませんでした。

もともと人に話をしたり説得したりすることの苦手な私から見ると、他の人たちはみな元気一杯、自信一杯に勧誘・説得しているようで、そのような罪悪感などはまったく持っていないように見えました。「自分ひとりがおかしいのかな…」そんな孤独感や劣等感に常に襲われ続け、誰にも相談できずにいました。

就職して青年部に移籍して、しばらくしたときの事でした。

街頭である人にふと声をかけられ、別の場所に連れて行かれ…詳細は省略しますが、気づいたら当時の月収を超える高額のローンを組んで、ある商品を買わされる羽目になっていました。あまりにも巧妙な手で、悪質なキャッチセールスだったと気づいたのは既にクーリングオフの期間が過ぎてしまってからでした。

あまりに簡単に騙されてしまったのは、本来の目的を偽って勧誘したり、断りきれない心理状態に巧みにもっていく等、手口が学友部での勧誘方法にあまりにも似ていたため、「これは正当な勧誘方法なんだ」と思いたい、すなわち「自分が学友部で行っていた勧誘方法は悪質なものだった」と思いたくない、という自己防衛の思いが働いていたためだったと思います。

結局その商品は自分にとって不要だったため、処分するためリサイクルショップに持っていくと、たいした価値の無い粗悪な商品だったことが分かりました。そのまま持っていても不快なだけなので、タダ同然の価格で泣く泣く引き取ってもらうしかありませんでした。

あまりにも世間知らずでお人好しな自分に腹も立ちましたが、それ以来、学生時代の勧誘方法への疑問は自分の中でますます大きくなり、悪質商法やマインドコントロールに関する書籍を読み漁ったり、インターネットでいろいろ調べたりするようになりました。やがてほぼ毎日のように親鸞会を批判するサイトをチェックするようになり、その習慣は現在でも続いているわけですが――「悪質商法が悪質といわれるのは商品が悪質だからであって、親鸞会のように真実を伝えている団体であれば、どんな勧誘方法であっても構わないのだろうか!?」――私は悩みました。のたうちまわるほどに悩み続けました。

長く長く悩み続けた末の、私の結論はこうです。

「親鸞会がいかに真実を伝えている団体であるとしても、学友部で行われている勧誘方法は、やはり悪質であり、早急に改められねばならない」と。

そもそも、親鸞会の話を聞いて真実と思うか否かは全く主観的なものであって(言うまでもなく信前のこと)、誰もが認められることとは言えないので、「真実を伝えているのだから、どんな勧誘方法をとっても構わない」という学友部の主張は、その前提からしておかしいのです。

仮に「真実を伝えている」と認めたとしても、「どんな勧誘方法をとっても構わない」とは言えないと思います。その勧誘方法が悪質であれば、やはり反社会的行為であって、悪以外の何ものでもない、親鸞聖人のお顔に泥を塗る行為と言えます。廃悪修善を叫びながら進んで悪を行っているわけで、何をか言わんやです。

5.大宇宙の真理と断言することについて

管理人さんが「親鸞会の教義は本当に大宇宙の真理か」と書いておられるので、それについて以下書かせていただきます。

親鸞会では「大宇宙の真理」という言葉がよく使われます。では「大宇宙の真理」とはどういう意味なのか、とは私はハッキリ聞いたことはないのですが、因果の道理のご説法で必ず言われる「三世十方を貫く道理」、すなわち「いつでも、どこでも成り立つこと、また、どんな人にとっても成り立つこと」と解釈して間違いはないと思います。

そう定義すると、何らかの命題を大宇宙の真理と証明することはきわめて困難で、まったく不可能といっていいでしょう。たとえば、因果の道理についてもそうです。

しかし私は、因果の道理については、そもそも不可能な「大宇宙の真理かどうかの理論的検証」には意味は無いと思っています。たとえ因果の道理が大宇宙の真理であると理論的に証明できたとしても、実際に「善い」種蒔きをして「善果」が得られなければ、意味がないからです。

親鸞会でよく言われるように、実践によってしか確認できないのは事実であり、仕方のないことだと思います。

たしかに「宗教的信仰」ではあるのですが、因果の道理は(現在世に限っていえば)ある程度頭で理解でき、ある程度実地に体験できるので、キリスト教の神などよりは、少なくとも私にとっては、はるかに受け入れやすいのです。

ただ一般的に言って、自分の信仰・信念をもつのは構わないのですが、ご指摘のとおり、それがあまりに強烈になって、他の意見や思考をもった人々を単純に「真実を知らない可哀想な人たち」としか見られなくなると危険だと思います。

学友部では「我々しか真実知らされた者はいない」という観念から、真実知らない「世間」の人々を馬鹿にするような風潮がありました。私はそういう風潮に染まらないよう気をつけていたつもりでしたが、知らないうちに影響を受けていたのでしょう、あるとき同期の1人から言動を注意されてギクッとしたことがあります。

ただしこれは、そういう風潮が悪いのであって、信仰そのものが悪いのではありません。因果の道理を信じたからといって、不都合なことは何もないはずです。

「三世因果」となると科学的な検証が不可能なので、始めから「信じる」しかないと思います。「論理的・客観的な説明が不可能」であり、まさに「宗教的信仰」そのものです。

ただし「仏教は他の宗教と違って、信じられないことは無理して信じようとしなくてもいい。信じられないならば、信じられないままで構わないから、縁をもって続けて聞いていくことが大事なのだ」とも言われていますから、たとえ三世について信じられなくても、聞き求め続けていって構わないのでしょう。「阿弥陀仏の存在」などについても同様のことが言えると思います。

本当に信心決定した人ならばツユチリの疑いなく「大宇宙の真理」と知らされるといわれるので、そう断言して他人に勧めるのも分からないではありません。それでも「誰でも納得できるように論理的・客観的説明が可能」かどうかは別問題でしょう。

最初の勧誘のときに宗教であることを隠し「哲学のサークルであり、すべて論理的に説明してキミを納得させる自信がある」と言ってしまっているので、辻褄あわせのために「三世因果も阿弥陀仏の存在も、論理的・客観的な説明が可能だ」と言わざるを得ないという事情もあるのかも知れません。本当はそんな説明は不可能なのに、無理して説明しようとするので、聞いた側は「はぐらかされた」と思っても無理のないことでしょう。

インターネットの掲示板で時折見かける「親鸞会は答えられない質問が投げかけられると、相手の疑問点に直接答えず別の話ではぐらかす。卑怯だ」という非難は、こういったところから発せられているのかも知れません。

かつて高森先生の御法話のあとに、T講師による座談会が設けられていた事があり、そこで、「『すべての宗教を調べたわけでもないのに、なぜ親鸞聖人の教えだけが真実と言えるのか』と人に聞かれて困った。どう答えたらよいか」という質問がありました。

そのときのT講師の答えは「『すべての宗教を調べたとも!』と、自信をもって答えなさい。相手はその迫力に圧倒されますよ。」というものでした。

オイオイそれじゃあ答えになってないだろう、高森先生に最も近いといわれる人でさえ、この程度の回答しかできないのか、と私は心の中で叫んでました。

もっとも対機説法でもあり、質問を提出した人自身はこの回答で納得したかも知れません。ほんとうに論理的に説明するには多くの言葉を要し、座談会のような限られた時間内では難しいのでしょうが、その場かぎりのはぐらかしでは決して誠実な対応とは言えないと思います。

T講師の座談会では、親鸞会の関連会社の社員が朝寝坊で遅刻したとかで、大勢の前に立たせて皆の笑い者にしたりしていました。聞いていた会員たちの多くは笑っていましたが、そこまで恥をかかせることないだろう、と私は非常にイヤな思いをしました。講師の中でも指導的立場にある人たちさえ笑っているのを見て、私は彼らの人格を疑いました。

追記:大学4年生のときの体験

(注:以下は私のあまりにも生々しい体験です。明らかに感情的になっているのが自分でも分かります。ですので、無理して読んで下さらなくて結構です。……読まなくてもいいのなら何故書くのか、とツッコまれそうですが、あまりにもイヤなことがあったので、どうしても書かずにおれなかったのです。いま思い出しても悪夢の日々でした)

私が幹部(サブリーダー)に任命されたのは4年生の始めでした。ご存じかと思いますが、当時学友部で幹部に任命されるときは事前に打診などはなく、また一旦任命されると事実上辞退はできません。週に何回も行われ夜遅くまで及ぶことの多い幹部会合への出席が義務づけられ、他にも自然と任務が多くなってしまいます。

つまり、自分の意思に反して時間的に拘束されることが多くなりました。

しかし大学4年生といえば、卒業研究や卒業後の進路確保のため、最も忙しくなるのが普通です。私は大学院進学を希望していたため就職活動は行っていませんでしたが、大学院入試の準備や卒業研究のため、親鸞会の活動にそれまで以上に時間をとられるのは極力避けたいと思っていました。

そんなときに、本人の意思を無視しての突然の幹部任命です。私は非常に不快な思いをしました。

キミよりもっと大変ななか頑張っている人が沢山いるじゃないか、と言われ逆らえず、泣く泣く更に激しい活動をやらざるを得なくなりました。あまり器用でない私は結局大学院入試に失敗し、単位を揃えてどうにか卒業するのがやっとでした。

このように言うと「自分のたねまき不足を仏法のせいにして…」と叱られてしまいますが、あまりにも個人の意思を無視したやり方に、憤りを感じずにおれませんでした。

あまりにも精神的・肉体的・時間的にきついため、担当講師に相談のメールを送ったことがあります。疲労困憊した頭で書いたためか、読みようによっては単なる愚痴ととれる文面になってしまっていたと思います。あくまで個人的な相談のつもりだったのですが、それを知ってか知らずか、当時の幹部全員に転送され、メール上で“指摘”の嵐が巻き起こりました。私はこれで精神的に大きなダメージを受け、この講師への信頼感を失っていきました。

あと非常に不快な思いをしたのは、顕真学院への執拗な勧誘です。

ちょうど講師学院が顕真学院にかわって門戸が広がった直後でもあり、担当講師から、サークルへの入部説得・入会説得にも等しい執拗な勧誘・説得がありました。

しかし私は親鸞会関係で就きたい仕事もなく、「自分の適性に合った職業に就き、その分野でお役に立ちたい。そのために世間一般の企業に就職したい」という思いがあったのです。

本当に「誰でも救われる教え」であるなら、どのような職業を選ぼうと差別は発生しないはずです。事実、世間一般の仕事をしながら求めておられる方も大勢おられるわけで、私もその中の一人になっても別に構わないじゃないか、と思っていました。しかし、そんな個人の意思はまったく無視され、事あるごとに顕真学院に進め、と言われ続けました。

「顕真学院をつくって下された会長先生のみ心を知れ!」「善知識に親しみ近づけ!」「顕真学院に進めば最もたねまきができる!」等のことを、繰り返し繰り返し絶叫する講師。

しかし「自分の適性に合った職業に就き、その分野でお役に立ちたい」と言う私に、そのような話で説得されても納得できないのです。私には目の前にいるその講師が、仏法者・宗教者と言うよりも、まるでセールスマンのように思えました。

その講師は「親鸞聖人のみ教えを徹底すれば全ての問題は解決する」という思いだったのかも知れませんが、これでは「相手の疑問点に直接答えず別の話ではぐらかしている」と言われても無理はないと感じました。

「学院を卒業した人間とはこの程度か、顕真学院では常識を身につけることを教えると聞いているが、これではタカが知れている。頼まれたって行ってやるもんか」――外面には表しませんでしたが、本当は申し訳ないことですが、私の心はそう叫んでいました。

大学を卒業後、4年余りにわたるストレスフルな学友部での疲れが一気に出て、一種のノイローゼ状態に陥りました(これはかなり後々まで尾をひきました)。いま思えば、神経科を受診すべきレベルだったと思います。就職活動に出遅れた焦りと不安もありました。結局は何とか就職先を見つけ、学友部から逃げるようにして青年部に移籍しました。「精一杯が尊い」といわれますが、それ以来、ゆきすぎた無理は止めようと思いました。

人間の心には時として、互いに矛盾する2つの思いが同居することがあります。

「自分の適性に合った職業に就き、その分野でお役に立ちたい」、すなわち社会に出てからも親鸞会を続けたいという思いもあれば、「こんなに異常な活動が続くのならば、青年部に移籍後、仕事を理由にするなどして何とか親鸞会から離れたい」という思いも同時にありました。どちらが正直な思いだったかというと、どちらもそうだとしか言えないのです。

そんな、どっちつかずの気持ちは青年部移籍後もしばらく続きました。もっとも現在は先に書いたように、親鸞会は辞めることなく、決して無理することなく続けていこう、という気持ちに落ち着いていますが。

以上です。長文失礼致しました。

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