なぜ私は親鸞会をやめたのか|反響集

『「続・なぜ私は親鸞会をやめたのか」を読んで』を製作された方へ

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私が公開した、『続・私はなぜ親鸞会をやめたのか』への反論として、『「続・私はなぜ親鸞会をやめたのか」を読んで(http://shinrankai.9jp.net/index.html)』が公開されました。

内容についての私の意見は、後日まとめて公開する予定ですが、執筆に当たって、『「なぜ私は親鸞会をやめたのか」を読んで』を製作した方にたずねたいことがあり、2005年12月8日に以下のメールを送りました。その全文を公開致します。

なお、このメールは上記サイトの管理者からの返信という形となっております。返信の内容自体は、先方から公開の許可を頂いておりませんので、現時点では掲載出来ません。ご了承下さい。


お返事頂き、有難うございます。

『デザインを真似られた理由』についてお書き下されなかったのは、残念でしたが、あらためて、その理由をお尋ねしたいと思います。よろしくお願いいたします。

リンクやデザインについて、今後、ご検討を頂けるとの事、感謝しております。先に頂いた返信ですが、私のサイトで公開させてよろしいでしょうか?その点についてもご同意を頂きたいと思います。

新しいサイトも拝見させて頂きました。
『「続・なぜ私は親鸞会をやめたのか」を読んで』にあるご意見も尊く聞かせて頂きました。

私は、お互いが自由に意見を述べあい、批判をすることは意義のあることだと思っています。今回、発表されたサイトへの、当方の見解も後日明らかにしたいと思っておりますが、まず最初に、私の立場をハッキリと述べておきたいと思います。

私は、「本願寺の関係者」ではありませんし、貴方様の仰るところの「京都に本拠地を置く布教使の某グループ」とも関係ありません。

もちろん、貴方様は団体名を明記しておられませんが、私自身そういった言葉から連想される団体とは、何のかかわりも持っておりません。

また、貴方が「面白いやりとり」として紹介された発言も、私ではありません。

その点については、ハッキリとここで誤解を解いておきたいと思います。

さて、私が貴方のサイトに対する見解を発表する前に、貴方の発表されたサイトについて、下記の質問をさせて頂きます。

「京都に本拠地を置く布教使の某グループ」とは高森先生がかつて所属しておられた、「浄土真宗華光会」の事でしょうか?名前が明らかに出来ないのならば、それはなぜでしょうか?理由をお聞かせ頂きたいと思います。

○今まで創価学会や本願寺など、相手を名指しで積極果敢に法論や破邪をしてこられた親鸞会が、どうしてこの団体だけは「某グループ」という、まるで奥歯に物の挟まったような言い方しかされないのでしょうか?

また、親鸞聖人の教えからかけ離れていると断言されるのでしたら、「親鸞聖人のみ教えを明らかにする」のが使命と公言しておられる親鸞会は、なぜ従来行ってきたように法論をし、機関紙や法戦などで顛末を公表されないのでしょうか?

そうせずに、名前も出せずに内輪で非難するだけの姿は、本願寺に質問状を送り、直接行動を起こされてまで回答を要求した、親鸞会の歴史を知っている身からすると、随分と違和感を感じてしまうのですが、なぜでしょうか。

もちろん貴方から親鸞会の公式見解を聞けるとは思いませんが、サイトで明快に「親鸞聖人の教えからかけ離れている」と断言されていましたので、ご存じかと思い、ここにお尋ね致します。

○マインドコントロールについても、詳細なご見解を聞かせていただき、有難うございます。

貴方は識者の論文を引用した上で、マインドコントロールは「きわめて日常的で、人間社会のどこにでもある内容ばかり」であり、「なにかしら恐怖感を与えるこの言葉を執拗に繰り返すことで、親鸞会を貶めようとしている」と主張しておられました。

ところで当方が指摘した、親鸞会で行われている「宗教法人を明らかにしない勧誘」については、なぜか貴方のサイトでは反論どころか一切触れられていませんでしたね。

そこで、いくつか情報を提供した上で、質問をさせて頂きます。

貴方は、

私の宗教社会学関連で言えば、「カルト」の定義、教団への入信をめぐる「マインド・コントロール論争」はほとんど不毛であり、イデオロギー対立の次元を越えない。つまり、布教・教化における本人の自己選択と組織による影響力の度合いは、基本的に程度問題であり、個人ごと、教団ごとケースバイケースである。100%の自由意志も100%の強制もない。

(平成17年8月23日 中外日報  櫻井義秀 「スペイン・国際カルト研究学会大会報告」 )

との北海道大学大学院教授、櫻井義秀氏の文章の引用の後、

入信をめぐる「マインドコントロール論争」は、ほとんど不毛と、専門家も断じています。

と主張しておられます。

しかし櫻井氏は、こうした自身の「マインドコントロール論」批判を、

「統一教会やエホバの証人や一部のジャーナリストが、私の全く意図しない場面で使おうとしている」

と指摘し、いわゆる「青春を返せ訴訟」での証言について、

証言において、あろうことか、筆者の「マインド・コントロール論」批判の論文も引用されたが、趣旨を取り違えていたように思われた。つまり、筆者は「マインド・コントロール論」による入信の説明は、宗教社会学の議論からは認めることができないと年来主張してきたが、「マインド・コントロール」という社会的告発に相当する宗教集団がひきおこした社会問題が存在していることは認めてきたし、そのような教団を批判する場合の方法に関して、「カルト」「マインド・コントロール」論に代わる批判の論点を持つべきであるという議論を展開してきたつもりであった。それは宗教社会学を専攻しているものとしてはごくありふれた学問的立場であるといえよう。しかしながら、筆者の意に反して、筆者の1996年の論文は統一教会側が「マインド・コントロール論」を否定する際に、日本の研究者による証拠資料として提出された。筆者は統一教会の入教・勧誘活動を是認するものではなかったし、「マインド・コントロール論」を批判することで、「青春を返せ訴訟」原告の論理をうち砕こうという気など毛頭なかった。

(「マインド・コントロール」論争と裁判- 「強制的説得」と「不法行為責任」をめぐって)

と主張しています。

そして、その青春を返せ訴訟の判示における、統一協会による勧誘行為の違法性については、

・勧誘等の方法が、長年の組織的勧誘等の経験に基づいた手法に基づき、組織的体系的目的的に行われているという点。

・被告協会の協会員は、上記のように、組織的体系的目的的に宗教団体である被告協会への加入を勧誘などするに当たり、当初はこの点を厳に秘しているという点。

をあげた上で、こう説明しています。

宗教団体を秘匿して勧誘することは単なる欺罔に留まらないといいます。物事を良く知っているかどうかで判断力に差はあるとしても、事実に関わる事柄には、合理的・論理的に考えて誤りを指摘することができます。しかし、宗教的教義には自然科学的知識や社会科学的論理で答えることができない内容が含まれています。神の存在、善悪の価値判断、歴史の目的、罪の起源と贖罪等。これらを宗教として教えられれば、信じるか信じないかの判断をすればよい。しかし、教団がこれらをあたかも自然科学的法則や歴史的事実のように語り、信者が普遍的真理として受け入れてしまうと、その後自らの力で教え込まれた知識体系に客観的に反駁することが容易にできなくなります。個人の人生を大きく左右する宗教的知識・論理をカモフラージュして教えることは、内心の自由に不当な影響力を行使する、許されない行為であるとされたのです。

(新潟集会講演 2002/3/15「札幌『青春を返せ』訴訟にみるカルト問題の行方」)

櫻井氏はこのように自身の「マインドコントロール批判」が不当に使われていると主張した上で、論文や講演などで繰り返し「宗教団体の正体を明かさない勧誘の違法性」について触れています。

私はそれらの論調を知った上で、西田公昭氏の著書を引用し、

「浄土真宗親鸞会」という宗教法人として認可された名前があり、部室の名義もほとんどは、その宗教法人名であり、部室の家賃なども、親鸞会が出資しているにもかかわらず、「親鸞会」という名前は、最初の勧誘では一切明かされないこと。

そして、「高森会長の説法を聴聞しに、富山県にある本部会館に毎月行く」ことや「財施と言って、献金をすすめられること」など、最初は一切説明されなかった自分たちの活動の中身を、新入生に対して、次々と小出しにしてゆき、いつのまにか、本人の意志で納得して選んだ形をとること。

と事例を挙げて、こうしたやり方は問題があると主張を致しました。

これらの批判についても、「きわめて日常的で、人間社会のどこにでもある内容ばかり」であり、こうした手法を批判する事は「なにかしら恐怖感を与えるこの言葉を執拗に繰り返すことで、親鸞会を貶めようとしている」と思っておられるのでしょうか?

○同様に勧誘マニュアルなどで明らかになっている、「引き離し対策」「親対策」。また、「未成年者に対して、両親の同意を得ずに、合宿などの場で深夜まで宗教団体への入会をすすめる」などの行為についても、「きわめて日常的で、人間社会のどこにでもある内容ばかり」であり、これらへの批判も、「親鸞会を貶めようとしている」と思っておられるのでしょうか?

このメールについては、従来と同様に私のサイトで公開する予定です。

貴方からのお返事についても同様に公開したいと思っておりますので、出来ればご同意を頂きたいと思っております。

以上、よろしくお願いいたします。


2005年12月19日、『「なぜ私は親鸞会をやめたのか」を読んで』を製作した方からお返事を頂きました。

残念ながら「公開する必要はない」とのことでしたので、頂いたお返事についてはここで公開する事は出来ません。

簡単に先方の返信の内容を書くと、サイトデザインをまねた理由は「きれいに読みやすく作ろうとしたら、結果的にそうなってしまった」、本願寺の関係者や京都に根拠地を置く本願寺布教師の某グループと誤解していることについては「主張が同じなら仕方がない。誤解だというなら違うと言うことを証明して下さい」、また私のした質問については「答える必要性を感じない」とのことでした。

まるで誠意の感じられない文章であり、私としても大変残念に思います。

そこで、こちらから更に、『「なぜ私は親鸞会をやめたのか」を読んで』を製作した方に返事をし、その内容を公開致しました。是非ご覧下さい。

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