なぜ私は親鸞会をやめたのか|反響集

親鸞会に入会した時に、この文を見ていたら逃げていたと思いますが、知らず知らずのうちに「それが正しいことなんだ」と思い込むようになっていったのだと思います。

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退会した者です。サイトを拝見させて頂きました。有難うございました。

このようなサイトを作成された勇気に敬意を表します。親鸞会側から中傷するメールなど来ると思いますが、負けずに頑張ってください。応援しています。

会員の中には「正々堂々名前を出して意見を言ったらどうだ」と言う人もいるでしょうが、正直に意見を言える雰囲気など親鸞会にはないというのは、多くの会員が認識していることだと思います。

大学での勧誘時に「どんな質問もOKだよ」などといって寛容さを売り言葉にしていましたが、実態はそんなもの存在していません。ご存知だと思いますが。

ですから、このような「問題提起」の方法、意見を述べられる環境は大事だと思います。

教義に対して、深く考察することがなくなって、「このサークルの先輩たちが言うこと、そして、高森顕徹先生の言われることに間違いがあるはずが無い」という思考が働いてゆきました。サークルで聞く「親鸞会の教義」を、無条件で受け入れるようになってゆきました。

(『なぜ私は親鸞会をやめたのか1.なぜ私は親鸞会に入会しようと思ったのか より)

ここの部分は、非常に共感しました。私自身も、今振り返れば親鸞会の教義や高森会長が「無二の善知識である」ということを無条件で受け入れるようになっていきました。

高森会長については、最初は「仏教の先生」と紹介され、だんだん、

「本願寺の学者を相手に法論し、勝った」
「高森会長以外で、まともに仏法を説く人はいない」
「高森会長こそ現在の善知識」
「高森会長こそ無二の善知識」
「高森会長は親鸞聖人の生まれ変わり」
「高森会長の教えに無条件に従わなければならない」
「高森会長は親鸞聖人以上の方だ」
(管理人注:このような発言がなされているのかと疑問を持たれる方もあると思いますが、私も同じ事を聞いたことがありましたので、掲載致しました。)

と、だんだんエスカレートしていったのだと思います。

正定聚という会発行の冊子に、「純会員の定義」というものがありました。

『高森先生を無二の善知識と仰ぎ、ご教導に無条件に
 従い、親鸞学徒の模範として、次の項目を実践する会員を
 純会員という。』

(親鸞会発行『正定聚』より)

親鸞会に入会した時に、この文を見ていたら逃げていたと思いますが、知らず知らずのうちに「それが正しいことなんだ」と思い込むようになっていったのだと思います。

「疑う」「なぜだろう、と疑問に思う」こと自体が悪いと。そう思い込ませるよう「マインドコントロール」が行われていたのだと思います。

実際には、高森会長が本願寺に本当に勝ったのかというと疑問がありますし(参考:親鸞会は本当に本願寺に勝ったのか)、「一念の水際を説かれるのは高森先生しかいない」と言われますが、本願寺の中には信前信後の水際を説かれる人がいらっしゃいますし(一部ですが)親鸞会で言われることは、根拠なく「自分達だけが唯一真実を知らされた団体なんだ」と叫んでいるように思いました。

正直、こんな団体にいた自分が恥ずかしいです。ただ、会員の多くは立派な方が多いですし、尊敬できる方も多数いらっしゃいましたので、「あの方々が言われるのだから間違いなかろう」と安易に信じてしまったのだと思います。

偏った意見だけを聞くのがいかに危険か、身にしみて感じられました。

これは、やめた者にしか分からないのかも知れませんが、
不思議な安堵感と、開放感に満ち足りています。

(『なぜ私は親鸞会をやめたのか6.最後に より)

これは、やめた者にしか分からないです。私も安堵感と開放感に満ちています。そして、自由に仏教を聞き、話ができる環境にいることをうれしく思っています。

親鸞会にまだ残っている人も、外の世界を見て、視野を広げてほしいと願うばかりです。

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