なぜ私は親鸞会をやめたのか|反響集

自分だって親鸞会が真実の団体だと確証出来るわけじゃないのに、どうしてこうも無批判に受け入れているのだろうかと思ったのです。

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初めまして。

2ちゃんねる、という有名な掲示板から、このサイトにたどり着きました。

私も、大学生の時に入会し、10年以上親鸞会で幹部として活動してきました。このサイトに掲載されている「必殺育成法」は実際に目にしたこともあります。「引き離し対策」とか、さりげなく一年生の金銭状況を聞き出したりとか、懐かしいなぁと思いながら読んでいました。

あの時は全体部室に行くと、ホワイトボードに各大学の勧誘人数とか合宿参加人数とか入会人数が一覧になって書いてあり、私の大学はなかなか目標に達せず、「決意文」とか「誓約書」とかよく書いてました。そういえば、夜中まで部室に残って担当講師と作戦を練っていたりもしました。

もちろん高森先生の御法話はどんなことがあっても休みませんでした。アニメや高森先生の著書が出るたびに募られる御報謝にも当然の如く参加しました。多分費やしたお金は全部で一千万円を下らないと思います。教学聖典も全部暗記して、大導師試験や講師試験も突破しました。

自分で言うのも何ですが、会の中では結構模範的な「親鸞学徒」だったと思います(笑)。あなたが幹部なら面識もきっとあるでしょう。本部会館で親しくお話しをしたこともあるかも知れません。

私は「講師部員や幹部で信心決定している人がいないのでは」という点は余り気になりませんでした。ただ、疑問を解消したわけではないのに、いつしか「親鸞会の教義が大宇宙の真理」であり、「高森先生が唯一絶対の善知識」と思いこむようになったのは、本当にその通りだと思いました。

思えば毎日活動が忙しく、友人は親鸞会の人ばかりで、高森先生の著書とか顕正新聞とかばかり読んで、いつも法友通信とかで「先生の御説法に感動しました!」的な話ばかり接していたわけです。そして、いわゆる職場の人とかは「どう生きるかしか知らない世間の人」というフィルタを通してしか接してなかったので、価値観がまるで親鸞会に染まっていました。

活動や教義に疑問が出てくれば「私の理解が足りないせい」だと思っていましたし、高森先生の御法話に感動出来ないのは「自分が真剣に聴聞してないから」と常に自分を責め続け、十年以上一時も心休まる暇がありませんでした。

私が退会することになったきっかけは、部屋で休んでいた時に、エホバの証人の人が布教に来たことです。2人ひと組のとても知的な女性が玄関で熱心に私を勧誘しようとしました。私は邪教に迷った可哀想な人だと思い一生懸命説得しましたが、2人の信念は揺るぎませんでした。

2人が去ってしばらく、あんな知的な人がどうして邪教に迷うようになるのか、なんであんなに一途になれるのか、と真剣に考えていました。すると、実は自分だって親鸞会が真実の団体だと確証出来るわけじゃないのに、どうしてこうも無批判に受け入れているのだろうかと思ったのです。そして、かつて自分が1セット10万円の親鸞会のアニメを一件一件売り歩いていた時のことが思い出され、あの2人と自分の姿が完全に重なりました。

その後は、マインドコントロールに関する本を読みあさりました。特に統一教会脱会者の手記など、自分のたどってきた心の道程とあまりに似すぎていて、怖くて途中で何度も本を閉じてしまうほどでした。

学生時代は勧誘方法や厳しい活動に疑問を感じましたし、社会人になってからは、あまりにも頻繁で高額な募財とか、高森先生に対する無条件服従とか、親鸞会への批判に対する粛正規定とかに、確かに疑問は感じていました。しかし一時はそういったことに疑問を感じても、その度に何かしら理由を付けて自分を納得させていました。そして何時しか何の疑問も抱かずに唯々諾々と従うようになっていました。

あのころはそれが信仰であり、仏縁であると思っていました。質素な生活をして親鸞会に財施をし、休む間もなく活動する人はみんなから賞賛され、まさにそれが信仰の表れだと思いました。そうしたことに疑問を持つ自分は仏縁の浅い人間だと感じていました。

自分の心はコントロールされていたんだなと思います。しかし当然親鸞会の中にいれば、自分がマインドコントロールしていたのだとは思いませんし、されているとも思えないでしょう。

いま思うと不思議なことですが、私も親鸞会だけが唯一絶対の真実の団体であり、それ以外はみんな邪教で、親鸞会を離れた人生など意味がないと本気に思っていたのです。だから親鸞会を離れるのには大変な勇気が必要でした。でも今親鸞会を離れてみると、まるで迷いから覚めたように、あの時の自分はどうかしていたと思います。

親鸞会にいたときは「人生は苦しい」といった情報ばかり与えられていました。それは否定しませんが、実は「人生って素晴らしい」って言っている人も沢山います。そうした人の言葉を「人生が分かっていない」とかってに決めつけて、あたかも親鸞会にしか生きる価値がないように思いこんでいました。

そうした無理な心の状態からようやく解放されたように思います。だから、「不思議な安堵感と開放感」という気持ちは、私にも実によく分かります。

私も一つの信仰として親鸞会に生きる人達を否定はしません。実際に会員の友人もいますし。でも自分自身はもう二度と親鸞会に戻るつもりはありません。それが今の正直な気持ちです。

私と同じような部分に疑問を持って退会された方がおられるのを知って、シンパシーと言えばいいのか(笑)、このサイトの存在価値は大きいと思います。これからも頑張ってください。

 

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