なぜ私は親鸞会をやめたのか|反響集

親鸞会の教義が正しいとも間違っているともいえませんが、結局は「信じている」に他ならなかったということです。

HOME

私がいた頃には、おおよそこのようなものはなかったと思いますが、最近はこのようなサイトができたのですね。私も、長いこと親鸞会に対しての疑問が拭いきれませんでしたが、なんとか決着を付けて現在に至っています。

私も(学友部出身者の多くの人がそうだと思いますが)大学入学時に親鸞会の人に勧誘されたのが最初でした。元々、人生に対して虚無感を抱いていたこと、そして第一志望の大学に合格できなかったことなどから更に厭世的になっていた時期でした。

私は、いわゆる「人生の目的」を求めていたのかも知れません。

勧誘を受けて話を聞いたとき、私は宗教団体だと直感しました。しかし、滅多なことは無かろうと、親鸞会の会合に参加するようになったのです。

私は、周りの先輩からはどうせすぐにやめるだろうと思われていたようです。実際、大学入学当初はお金もなく、親鸞会の会合に参加することさえままならない状態でした。しかし、それでも会合だけは出続けました。

「合宿で人生の目的はハッキリする」という先輩の言葉に釣られていたのです。

「ハッキリする」を「達成できる」と勝手に解釈していた私は、新歓合宿終了後に、大きな失望を味わうことになりました。

しかし、自分の理解不足であったと、また会合に足を運ぶ日々になりました。また、高森先生の法話に参詣さえすれば、信心決定できる、と思っていました。

しかしそんなはずもなく、いつしかその思いは「親鸞会に入会すれば」に変わっていきました。

そうやって、ちょうどいくら追いかけても捕まらない影を追いかけるように、私は親鸞会の説く「無碍の一道」を追いかけ続けました。

入会もし、先輩にもなり、学階大導師になり、学階講師になり・・・・

しかし実は、親鸞会教義の中枢にある「後生の一大事」を頭の上で理解したのは、何年も後になってからでした。それまでは、説明することはおろか、理解すらもしていませんでした。

なぜ、こんな私が続けて聞いていたのか。それは端的に言えば「絶対の幸福」「無碍の一道」の世界への憧れでした。この程度でよくも親鸞会との縁が続いたものだと思います。

活動にも追われましたが、結局私は大学を留年することなく卒業しました。そして、卒業してからも親鸞会の法話には参詣し続けました。

しかし、「高森先生こそ真実のお方」「真実の教え」「先生こそ唯一の善知識」として、毎回のように報謝の行としてお誘いのみがやたらと強調され、会合では幹部が「高森先生の御心」と絶叫し、「決死報恩」を叫ぶ。

そのような空気が支配的であり、私のような者は存在が許されないのではとさえ思いました。今思えば、心の距離は埋めがたいものでした。

「この人たちは、なぜこんなに親鸞会一筋になれるのだろうか?」会員だった当時でさえ、そのように思ったことはしばしばでした。

もちろん、死の問題は放ってはおけない。早く無碍の一道に出させてもらいたい、そうは思っていました。

しかし、会員の皆さんは自覚がないと思いますが、何でもかんでも高森先生と同じになろうとしているような傾向が、親鸞会にはあるように思えてなりません。

教えの面でその通りだと思いこむことは仕方ありません。しかし、この世どう生きるかにおいてさえも同じようになるのは違和感を感じていました。

一例を挙げれば、言葉遣いです。また、仏教の教えそのものでなく作法などにおいてもそれは言えます。

すべては、「高森会長が絶対に正しい」と思いこんでいるところから来ていたのだと思います。

マインドコントロール、と言われると殆どの会員は血眼になって否定するでしょう。しかし、おそらくすべての会員の入信の過程において、何らかの形でマインドコントロールはなされていたと思っています。

私も「絶対の幸福」の確証もないまま存在だけを信じていましたので。

現在は当時と違い、離れて客観的に親鸞会を見つめられるようになりました。そのときに思うのは、親鸞会の教義が正しいとも間違っているともいえませんが、結局は「信じている」に他ならなかったということです。

元々、親鸞会への入会も「しなければ信心決定できない」との思いからでした。しかし、そのことについて後悔はしていません。時間が掛かりましたが、私は私なりに親鸞会との関係を処理してきたつもりです。

親鸞会にいることが喜びである人も少なくないでしょう。そういう人たちを、私がどうこう言うつもりはありません。

ただ、もし「親鸞会こそ唯一絶対の真実の団体」との信念から離れられず、しかしながら親鸞会が真実の団体であるかどうか、迷いが生じて苦しんでいる人がいるとすれば、そんな人にこのようなサイトは必要だろうと思うのです。

頑張ってください。

なぜ私は親鸞会をやめたのか|反響集 トップに戻る

なぜ私は親鸞会をやめたのか|ホーム