なぜ私は親鸞会をやめたのか

高森顕徹氏と大沼法竜氏の著書の類似点(1)

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大沼法竜著『教訓』はしがき
皆さま、一輪のお花が美しく咲いていますのも一朝一夕ではありません。
(中略)
ある婦人が博士のところに行き「この子供の教育をどんなにしたらよいでしょうか」と尋ねられた時「もう遅いですね」「まだ生れたばかりでございますが」その子供を本当に教育しようと思ったらあなたの祖母から教育してこねば遅いですよ」と申されたそうですが胎内教育も大切であり、胎外教育も勿論必要には違いありませんけれども、親となるべき資格を持ちますには今日今時より先ず自分自身より教育せられなければなりません。貴女の行が子供に恥しいことはありませんか、針が進まなければ糸は正しく縫えておりません。
(中略)
……因果の道理の正しいことを知らず、無慚愧の生活をし放縦邪悪の行為をして冥から冥に入るために子孫の者は悪を悪とも知らず、罪を罪とも知らない生活をして、この世からなる恨み呪い破滅のどん底に苦しみ、永劫の苦患を受けなければなりません。それはとりもなおさず自身の破滅と共に家族は悲境に陥り、社会には害毒を流し……
世の中の母とならるる方々よ、小学校より以上の教育の必要も当然すぎるほど当然には違いありませんが、智育に偏重して徳育及び宗教々育を忘れてはなりません。
(中略)
ある方が母となるには百以上お伽話や有益な話を知らなければその資格がないと言われてありますが、子供を産むだけでは下等動物と何等簡ぶ処がありませんよ。
ご承知でございますか、僅か一つか二つではいけませんよ。面白い話の中に小さい魂に奮発心を喚起させ不屈の精神を培い、遊惰の害虫を駆除し、安逸の邪念を除去し、忠君愛国謙譲慈敬の善心を養い、孝養父母社会浄化の良風を教え、浮華放縦邪見驕慢の悪心を除き、忘恩反逆没義背信の蛮風を去り、金剛石を宝玉と磨きあげてくださるのはあなたの舌一枚にその責任はあるのです。

大沼法龍「心の転換」
闇に向う者は滅ぶ
光に向う者は栄える

高森顕徹著「光に向かって」はじめに
一ページをぬりつぶす、印相の広告が、しばしば大新聞に掲載される。
(中略)
高校や大学が林立していても、知育偏重で、徳育が忘れられているからではなかろうか。
高僧に、ある婦人が、子供の教育を尋ねると「もう、遅いですね」
「まだ、生まれたばかりですが」
「その子供を、本当に教育しようと思えば、貴女のお母さんから始めねば」
といわれて、驚いたという。
”いくたびも、手間のかかりし、菊の花”
一輪の花が、美しく芳香を放っているのも、一朝一夕ではないのである。
況や子宝を、立派な人格者に育成するには、並大抵の辛苦ではない。
学校教育も、勿論大切だが、なんといっても、人間形成は家庭教育、とりわけ親の心構えにある。
(中略)
子供を産むだけでは、下等動物と、何ら簡ぶところがない。
因果の理法を知らず、放縦邪悪な行為をすれば、この世から、恨み、呪いの苦患を受けねばならぬ。
それは、自身の破滅のみならず、子供をも悲境に追いやることになる。
針が正しく進めねば、糸は正しく縫えるはずがないのだから、親は、姿にかけた教育を、心がけねばならない。
”百以上の、お伽話や有益な話を知らなければ、親の資格がない”と、ある教育者は道破する。
面白い話の中に、小さい魂に奮発心を喚起させ、不屈の精神を培い、遊惰安逸の妄念を除去して、金剛石を、宝玉に磨きあげるのである。
光に向かって進むものは栄え、闇に向いて走るものは滅ぶ。

大沼法竜著 「法界」 P65
華厳経は釈尊の自内証の経で、高遠の真理を説かれるから大衆は如唖如聾、それで程度を低めて四十年間調機誘引されたのが阿含、方等、般若の諸経である。愈愈上根大衆の為に金色の姿をして法華妙典の説法の最中に悲泣雨涙の請に応じて王宮に降臨し給うは為凡の経を説く為であり、自力の修行より他力の乗托すべき事を顕はすのである。観経を説き終って霊鷲山に帰り、残りの経を説かれたから法華と念仏は同時の経である。

高森顕徹著 「会報 第1集」 P65 上段
釈尊が自内証のままを説法せられたのが華厳経であるが、文殊、普賢の二菩薩のみは聞いたが、その他聴衆は如聾如唖であったので、グッと程度を低めて阿含経、方等経、般若経を説き四十余年間、調機誘引されて遂に自力の出世本懐経たる法華経を説いていられる最中に王舎城の一大悲劇により韋提希夫人の請を入れて王宮に降臨して観無量寿経を説かれ霊鷲山にかえられて法華経の残りを説かれたから法華経と観無量寿経は同時の経といわれるのである。

大沼法竜著 「法界」 P380
この欲は限りがなく底が知れない、恰も水が物を潤す如く而も深さが知れないから青い、青いから青鬼と教えたのだ。

高森顕徹著 「会報 第1集」 P70 中段
そして何時も満足出来ない奴で恰も水が物を潤す如く而も深さが知れないから青いー青鬼と教えられている。

大沼法竜著 「法界」 P380
怒とは心の上に奴と書いて有る。あの奴が邪魔する、この奴が居りさえしなければと心の中で殺して居る相が怒であり、激い事は火のようであり、真赤になるから赤鬼と言ったのである。

高森顕徹著 「会報 第1集」 P79 上段
怒るとは心の上に奴と書いてある。あの奴が邪魔するからだ。この奴がおりさえしなければと心の中で殺している相が怒であり、激しいことは火の様であり、真赤になるから赤鬼にたとえられている。

大沼法竜著 「法界」 P380
愚痴の痴の字は智慧が病気に掛ったと言う字で、正しき判断を失う、蒔いた種を知らず業が報うて驚いて、こんな筈ではなかったがと不平で世の中を呪うて居るのが愚痴である。

高森顕徹著 「会報 第1集」 P80 上段
愚痴は愚も馬鹿なら痴も知恵が病気にかかっている字だから、同じく阿呆で正しき判断が出来ないから蒔いた種を知らず業が報うて驚いて、こんなはずではなかったにと不平で世の中を呪いネタミとウラミで何度でも

大沼法竜著 「法界」 P368
然るに我がこころを眺むれば心中閉塞のその中、勝他我慢に無智我見、放逸無慚に嫉視反目、蛇蝎奸詐に強欲非道、煩悩具足で缺げた物がない。

高森顕徹著 「会報 第1集」 P84 上段
勝他我慢に無智我見、放逸無慚に嫉視反目、蛇蝎奸詐に強欲非道、煩悩具足で欠けめがない我々の心を

大沼法竜著 「法界」 P337
善導釈していわく『南無と言うは帰命亦是発願廻向の義なり、阿弥陀仏と言うは即是其行なり、斯の義を以ての故に必ず往生する事を得と言えり』と教えてあるが、南無とはたのむ機の方であり、阿弥陀仏と言うは助くる法の方であり、たのむ機の方までも十劫の昔六字の中に成就して有るから法体成就の機法一体と言うのであるが

高森顕徹著 「会報 第2集」 P46 上段
善導大師は「南無というは帰命、亦是発願廻向の義なり、阿弥陀仏というは、即ち、その行なり、この義をもっての故に必ず往生する事を得るといえり」と教えて南無とはタノム機の方であり阿弥陀仏とは助くる法の方である。タノム機の方までも十劫の昔に六字の中に成就してあることを明らかにしていられる。これを法体成就の機法一体と呼び、古今楷定の六字釈といわれるものである。

大沼法竜著 「法界」 P337
下三品の人間は無善造悪で業に攻められ、苦逼失念で苦に追い立てられて居るのだ。念仏は称えて居るけれども因縁を結ぶだけであって何時の世にかは往生を得るので即得往生をしたのでない。遠生の結縁と成るだけで次生に往生即成仏を得るのではない、別時意である。

高森顕徹著 「会報 第2集」 P47 上段
下々品の人間は無善造悪で業に攻めぬかれ、苦逼失念で苦に追いたてられているのだから十念称名で願は有っても行がないから助かるはずはない。
(略)
だから十念の称名念仏は諸善万行の成就する永劫の末でないと往生は出来ないのだ。今はただ遠生の結縁になるだけである。にもかかわらず今、それを即得往生すると説かれたのは怠惰な者を誘引して修行させるために外ならないとして下品往生をもって別時意趣と解釈したのである。

大沼法竜著 「法界」 P338
善導が、大体、観無量寿経は心想るい劣の韋提が対機ではありませんか、定散二善に堪えない機を救うのが阿弥陀仏の目的ではありませんか、第九の真身観の仏は光明遍照十方世界念仏衆生摂取不捨と申されたのは下根下劣の下三品を念仏によって救済するのが目的ではありませんか。
(略)
散乱粗動の善導、苦逼失念の下三品がどうして観念が出来ましょうに。仏の慈悲は苦なる者においてす、岩上の者よりは溺れて居る者から救わなければなりません、だから付属の文に来れば廃観立称して有るではありませんか。

高森顕徹著 「会報 第2集」 P48 下段
観経疏の中で、善導大師は諸師の誤謬を正して「大体観無量寿経は心想ルイ劣の韋提希夫人に対して説かれた説法ではないか。定散二善にたえない人を救うのが阿弥陀仏の目的ではないか、散乱粗動の善導、苦逼失念の下三品の人が、どうして観念や修行が出来ようか、仏の慈悲は苦あるものにおいてす、岩上の者よりは溺れているものから救わねばならない。だからこそ付属の文には廃観立称してあるのだ。

大沼法竜著 「法界」 P339
南無と言うは帰命、亦是発願廻向の義であり阿弥陀仏と言うは即是其行、如来既に発願して信順無疑、仰せに順うたと同時に其人の行となる。願と行とが六字の中に調えて有るから必ず往生する事を得るのではないか。願行具足々々と言って凡夫が願を起し凡夫が行を修して行くのなら凡夫の願行だから凡夫の世界にしか行かれない。仏の願行を機無円成するが故に仏の世界に行かれるのではないか

高森顕徹著 「会報 第2集」 P49 上段
南無というは帰命亦是発願廻向の義なり、阿弥陀仏というは即ち是その行なり。如来既に発願して信順無疑、仰せに順うたと同時に其の人の行となる。願と行とが六字の中にととのえてあるから必ず往生が出来るのだ。願行具足といっても凡夫が願を起し凡夫が行を修して行くのなら凡夫が願行だから凡夫の世界にしか行けないぞ。仏の願行を機無、円成するが故に、仏の世界に行かれるのだ。

大沼法竜著 「法界」 P86
法の側から言えば因位の万行、果地の万徳、三世十方法界の功徳を集めて衆生に廻向するとか、阿弥陀如来は久遠実成の覚体、無始本有の極理なり、迷悟染浄一切の万法ことごとく阿弥陀の三字に摂在せずということなしとか、法蔵菩薩の三業二利の功徳とか、無上甚深の功徳利益の広大なることさらにその極まりなきものなりとか

高森顕徹著 「会報 第2集」 P50 下段
名号の中には迷悟染浄一切の功徳を包含し、因位の万行、果地の万徳、三業二利の功徳、三世十方一切の功徳が成就せられてあるから『大無量寿経』には「無上の功徳」と説き、

大沼法竜著 「法界」 P232
お前は一念を判ると説くかい、判らぬと説くかい。
判る人には判る、判らぬ人には判らないと説きます。
それなら時が判るかい。
実時ですか、仮時ですか。
実時。
実時なら分秒に掛らないのだから判りません。
仮時。
仮時なら信楽開発以後だから判ります。

高森顕徹著 「会報 第2集」 P95 上段
私は「判る人には判る、判らぬ人には判らぬ。」という。

高森顕徹著 「会報 第2集」 P95 中段
実時は極速だから我々の分秒にかからないから絶対に判らないが仮時が判らない筈がない。

大沼法竜著 「法界」 P258
歎異鈔の御言葉は、信後の懺悔であるけれども、信前の入口にいる者が、御言葉の真似をして、得手に聞いて勝手に行うので、聖人の真髄を把握してはいないのだ。聖人も唯円房も、真剣な求道の後に到達し得た境地で、信後の懺悔であるのを、信前の不安いっぱいの者が、「御講師さん、私は疑うてはいませんけれど、どうも喜びが出ませんが、これで宜敷う御座いましょうか」

高森顕徹著 「会報 第2集」 P141 下段
これは聖人と唯円の信後相続の上の深い懺悔の言葉であって信前の入口に立っている者の窺い知ることの出来ない信境でケタが違うのだ。慶べないのを懺悔するのなら尊い姿であるけれども慶べないのが当り前で平気で

大沼法竜著 「法界」 P259
祖師の信後の信仰を、信前に引き下して、疑いに免許を与えている曖昧な信仰ではないか。

高森顕徹著 「会報 第4集」 P19 中段
信後の尊い懺悔の言葉を信前の者が引きずり下して、信前の同行の疑心を包む道具に使うから、

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 8.高森顕徹著『会報』に関する基礎知識

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