なぜ私は親鸞会をやめたのか

高森顕徹氏と伊藤康善氏の著書の類似点(2)

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伊藤康善著『安心調べ』P255〜P256
そんなあっさりした話で生死の大問題が解決する人があれば、吾等は求道に苦労することもない。仏勅をすなおに信ぜられるほど、我等はお目出度い人間にできていない。そこには深酷な体験の苦しみがなくてはならぬ。払うても払うても後から後から現われ、奪えるだけ奪っても、なお心の底にこびりつく仏智疑情の薄紙を破らねばならぬ。だから説く者も愛想をつかし、求める者も愛想をつかし、求道に精も根も尽き果てて、悲泣悶絶のどん底から、湧き上がる精神的大飛躍の境地がなければならぬ。廻向信は決して、おぼろではない。今こそ明らかに知られたりと驚き立つこころである。
この信は仏階52段の中、下50段を超えて41品の無明を断ずる等覚不退に類同せられる。……、真に手の舞い足の踏むところを知らぬ大歓喜である。至心信楽己を忘るというも愚かなり、大千世界を踏む破って、恒沙の諸仏に怒号叱咤することのできる豪快な自覚が生まれてくるのである。この体験がなくては何を言っても駄目な話だ。

高森顕徹著『会報第二集』
そんなあっさりした話で生死の大問題が解決するものか、十劫の昔の話を素直に信ぜられる程我らはお目出度い人間に出来ていないのだ。そこには、生死の断頭台上に生首をつき出す苦しみがある。払うても払うても後から後から現われ、奪えるだけ奪っても尚心の底にこびりつく仏智疑情の薄紙を破らねばならぬ。だから説くものも愛想をつかし、求める者も愛想をつかし求道に精も根もつき果てて悲叫悶絶のどん底から湧き上がる精神的大飛躍の境地がある。一念は断じておぼろではない。今こそ明らかに知られたりと驚き立つ心である、この一念に仏階五十二段の中、下五十段を超えて四十一品の無明を断ずる等覚不退に類同せられるものであり、真に手の舞、足の踏むところを知らぬ大歓喜があるから慶喜一念という。至心信楽己を忘れるというも愚なり、大千世界を踏み破って恒沙の諸仏に怒号叱咤することの出来る豪快な自覚が生まれるのだ。この一念の体験がなくては何をいっても駄目なのだ。

高森顕徹著『会報第二集』
そこには払うても払うても後から後から現われ、奪えるだけ奪ってもなお心の底にこびりつく仏智疑情の薄紙を破らねばならぬ。説くものも愛想をつかし、求める者も愛想をつかし求道に精も根もつき果てて悲叫悶絶のドン底へ鮮かに徹底する仏智である。真実の信心は断じてぼんやりしたものではない。今こそ明らかに知られたりと驚き立つこころである。

伊藤康善著『安心調べ』P257
金剛信に徹して解脱光輪の慈照を蒙れば、吾等の家郷に父母あるが如く、浄土に弥陀ましますことを信ずる。

高森顕徹著『白道燃ゆ』
金剛信に徹して、解脱の光輪の慈照を蒙れば、我らの家郷に父母あるが如く、浄土に弥陀ましますことを信ずる。

高森顕徹著『こんなことが知りたい(5)』
金剛信に徹して解脱の光輪の慈照を蒙れば、吾らの家郷に父母あるが如く、浄土に弥陀ましますことを信知させられる。

伊藤康善著『安心調べ』P259
体験の宗教が宣伝の宗教と思われ、小児が利刀を弄び過ぎたために、すっかり切れ味が無くなったのが真宗教団の現状である。だからそんな説教を聞いている地方の同行信者に至っては、すっかり親鸞の精神と離れた安っぽいお助けの俗信仰になっている。彼らの頭に描いている仏は別に阿弥陀仏に限ったわけではなく、天理教徒がお勧めすると、すぐ南無天理王になり、金光教徒が勧めると、すぐ天地金の神になる。キリストの神に代えても差し支えなく題目の信仰になっても心持ちは一つで、同じような信仰だ。雑行雑修を嫌い、迷信邪教を排斥する真宗門徒が、一番多く雑行雑修に走り、迷信邪教に溺れるのもこのためで、彼ら布教使もその信徒拡張運動には、門徒ばかりを覗っている。一番早く転がり易いからだ。

高森顕徹著『会報第四集』
坊主にして然りだから門徒に仏壇と神棚を並存させていてもなんの矛盾も感ぜず、報恩講や年忌仏事も営むが、神社の祭礼には敬神といって大童になり、神主を招いて神前結婚や地鎮祭をやってもなに不思議もなく平気なものである。だから天理教が勧めに来るとすぐ南無天理王命になり、金光教が勧めるとすぐ天地金の神になる。創価学会がせめると阿弥陀仏の尊像を焼いて板マンダラを拝む。キリスト教の神に代えても、生長の家になっても皆同じようなものだと考えているから門徒もの知らずと馬鹿にされている。雑行雑修を嫌い、迷信邪教を最もきびしく排斥する真宗門徒が一番多く雑行雑修に走り、迷信邪教に溺れるのは当然といわなければならぬ。

伊藤康善著『安心調べ』P261
もしそれ宿善開発し、あらゆる疑情を収めて、当相脚下三千丈の谷底に転落せんか、如来の廻向信は、げにこの貪瞋煩悩の大地より光明を放ち、その破闇満願の名号原理として含む浄土の実在も直観せられる。

高森顕徹著『会報第二集』
あらゆる疑情を収めて当相脚下三千丈の谷底に転落せんか、如来の大信心は、げにこの貪瞋煩悩の大地より光明を放ち、「ただのただもいらんただじゃったただじゃった」とおどり上がるのである。

高森顕徹著『こんなことが知りたい(5)』
善知識のご化導によって宿善開発して仏智満入すれば、その破闇満願の名号原理として含む、昿劫流転の自己の真実も、三世因果の道理も、弥陀や浄土の厳存も直感されるのです。

伊藤康善著『安心調べ』P286
信巻の三心釈を見ると、如来の三信と衆生の三心とを比較研究して、如何にも罪悪観の深まったのが信仰のように説いてあるが、これを帰結する御文は「疑蓋まじわることなし」と9ヶ所も同じ文を出して信疑廃立で結んである。

高森顕徹著『会報第二集』
これを信疑決判といい親鸞聖人は『教行信証』信巻の三心釈には如来の三信と衆生の三心とを比較研究なされて最後には「疑蓋まじわることなし」と九ヶ所も同じ文を出して信疑決判で結んでいられることをみても、その重要性が判るであろう。

伊藤康善著『安心調べ』P303
吾々親鸞学徒は、祖師聖人の「教行信証」に立ち、覚如上人の「改邪鈔」、蓮如上人の「御文章」に一貫した願成就の信一念の錦の御旗をふりかざして進む。

高森顕徹著『白道燃ゆ』
我々真宗人は、親鸞聖人の『教行信証』に立ち、覚如上人の『改邪鈔』、蓮如上人の『御文章』に一貫している信心正因、称名報恩の錦の御旗を、振りかざして進むのである。

伊藤康善著『安心調べ』P305
吾々の先徳はこの行信の戦のために流血惨事の法難をくぐっている。観経の念仏を破って大経真実の信心を示すのは親鸞学徒に命ぜられた無上使命である。たとえ浄土宗の者がその史実を否定しても我が親鸞聖人は何故に三百余人の法然門下の中に、信行両座の座を別けなければならぬか。いくたびも廃立をさきとして、願成就の信一念を示しても、迷い易き衆生はまたしても観経の念仏に腰を据えようとするのだ。ただに法然門下において信行の戦をなすのみならず、親鸞門下においても信行両座の戦いは絶えず繰り返されているのだ。

高森顕徹著『顕正』
吾々の先徳は、此の行信の戦いの為に流血の惨事の法難をくぐっている。自力の念仏を破って他力真実の信心を示すのは我々に命ぜられた無上の使命である。たとえ浄土宗の者が、その史実を否定しても、我が聖人が何故に三百八十余人の法然門下の中に信行両座の座を分けなければならなかったか、いくたびも廃立をさきとして唯信独達の仏意を教えても信に惑い行に迷い易き衆生は、信楽開発することを忘れて、またしても自己の称える念仏をアテ力にしようとするのだ。
ただに法然門下に於て信行の戦いがなされたのみならず、親鸞門下に於ても信行両座の戦いは現在も絶えず繰り返されているのだ。

高森顕徹著『会報第五集』
我々の先徳は、この行信の戦の為に流血の惨事の法難をくぐっている。『観無量寿経』『阿弥陀経』の念仏を破って『大無量寿経』成就文の真実の信心を明示することは我々に課せられた無上の聖使命なのである。背師自立の攻撃も孤立無援も覚悟の上で、我が親鸞聖人は何故に三百八十余人の法然門下の中に信行両座を別けなければならなかったのか。いくたびも廃立を先として願成就の信一念を示しても行に迷い信に惑い易き衆生は、またしても『観経』『小経』の念仏に腰を据えようとするのだ。曠劫流転の自力の執心が、最後に逃げ込む牙城がこの念仏なのである。故にこれは決して七百年以前の法然門下に於いてのみの戦いではなく、現今の浄土真宗の中に於いても信行両座の戦いは絶えず繰り返され、それは龍華の御代まで続くことを覚悟しなければならぬ。

高森顕徹著『こんなことが知りたい(2)』
背師自立の攻撃も、孤立無援も覚悟の上で、親鸞聖人は何故に三百八十余人の法然門下の中に、信行両座を別けられねばならなかったのか。
いくたびも廃立を先として信心正因を明示されても、行に迷い信に惑い易き人々はまたしても念仏に腰を据えようとするのです。
曠劫流転の自力の親玉が最後に逃げ込む牙城が、この念仏なのです。
故に、これは決して七百年以前の法然門下に於てのみあった戦いではありません。現今の浄土真宗の中に於ても、信行両座の戦いは絶えず繰り返され、それは龍華の御代まで続くことを覚悟しなければなりません。

伊藤康善著『安心調べ』P309
浄土真宗の教えは、悪人のみを救う教えでもなければ、善人のみを救うものでもない。如来の大悲によって猫も杓子も救うような大ざっぱな教えではない。真宗は慈悲門でなくして智慧門である。慈悲ならば三世諸仏にもあるが、智慧は弥陀一仏に限る。随ってそれは極難信の教えであって、宿善深厚の大機に非らずんば味わうべからざる難透、難解、難入、難信の法である。

高森顕徹著『会報第三集』
真宗の教えは悪人のみを救う教えでもなければ善人のみを救うものでもない。如来の大悲によって猫も杓子も救うような大ざっぱな教えでもない。真宗は慈悲門ではなくして智慧門である。慈悲ならば三世の諸仏にもあるが、智慧は弥陀一仏に限る。随って、それは極難信の教えであって宿善深厚の大機でなければ味わうべからざる深法である。

伊藤康善著『安心調べ』P310
真実報土の往生には二種深信が立たねばならぬ。我々凡夫も二種深信が立たねば報土往生はできぬ。我々のような煩悩心のない善導大師や、41品の無明を破った弥勒菩薩も二種深信が立たねば往生はできぬ。すでに化土往生せる無量千万億の往生人も二種深信なくば報土往生はできぬ。

高森顕徹著『こんなことが知りたい(3)』
真実報土に往生するには、必ず二種深信がなければならないと、親鸞聖人は教えておられます。
二種深信が立たなければ、私達凡夫も大信海化現といわれる善導大師や、四十一品の無明を破った弥勒菩薩も、報土往生は出来ません。
すでに化土往生している無量千万億の往生人も、二種深信がなければ報土往生は出来ません。

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 1.高森顕徹氏と伊藤康善氏の著書の類似点(1)
 2.高森顕徹氏と伊藤康善氏の著書の類似点(2)
 3.高森顕徹氏と伊藤康善氏の著書の類似点(3)
 4.高森顕徹氏と大沼法竜氏の著書の類似点(1)
 5.高森顕徹氏と大沼法竜氏の著書の類似点(2)
 6.高森顕徹氏と大沼法竜氏の著書の類似点(3)
 7.高森顕徹氏と大沼法竜氏の著書の類似点(4)
 8.高森顕徹著『会報』に関する基礎知識

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