なぜ私は親鸞会をやめたのか

高森顕徹氏と伊藤康善氏の著書の類似点(1)

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伊藤康善著『安心調べ』P113
それからはたのむ一念を毛嫌いするようになった。嘘と思うなら西本願寺系の布教使の説教を聞いて御覧なさい。たのむ一念を角立てて説く坊さんは一人もいない。皆が二種深信の上で説教して、弥陀の親心を有難く受けたのが信心だと言う。その上は喩話で誤魔化すのである。

高森顕徹著『会報第二集』
たのむ一念を毛嫌いするようになったのである。嘘と思うなら西本願寺系の布教師の説教を聞いてごらんなさい。たのむ一念を角立てて説く人は一人もいないから。みな二種深信の上で説教して弥陀の親心を有難く受けたのが信心だという。その上は喩話で御魔化すのである。

伊藤康善著『安心調べ』 P136
聖教は神聖にして、句面の如く拝すべく、一字一句加減すべからず、…

高森顕徹著『会報第三集』
それは三世を貫く仏説なるが故に、神聖にして句面の如く拝すべきで一字一句加減すべからず、浄土より使わされた如来の声を文字に示したものである。

伊藤康善著『安心調べ』 P141
真宗の安心は根本から転覆される。信心正因、称名報恩が真宗の本旨で、念仏はすべて信後報謝の念仏に限るのであるが、この通りだとすると、信の対象は称名であり、初一念に念仏の声があることになる。言わば念仏は信心を親として生まれる子であるがこの説を認めると、子が親を生むことになる。

高森顕徹著『白道燃ゆ』
若し、このような称名正因の教えを許すならば、真宗の信心正因の教義は、根本から転覆してしまうのだ。
信心正因、称名報恩が、真宗の正義であるから、念仏は総て信後、報謝の念仏に限るのである。
いわば念仏は、信心を親として生まれる子供であるが、称名念仏さえしていれば助かる、というのは、子供が親を生むという、馬鹿げたことになる。

伊藤康善著『安心調べ』P142〜P143
善導や法然が称名本願を説いたのは、観経下々品の往生に腰を据えて、大経の本願文を見たのである。それは諸行に対して念仏易行を説いたので、行々相対の法門という。親鸞が念仏為本より信心為本を勧めたのは、大経そのものに据わって、願成就文から、本願を見たのである。大経には称南無阿弥陀仏の文は一ヶ所もない。願成就にも称名はない。信一念の往生である。ここから本願をみると正しく信心往生である。乃至十念の称名は三信に収まって、唯信独達の教義が成立する。行々相対より唯信別開の絶対門になる。

高森顕徹著『会報第五集』
善導大師や法然上人が称名本願を説かれたのは『観無量寿経』下々品の往生に腰を据えて本願を見たからである。それは諸行に対して念仏の易行を説いたものであるから行々相対の法門という。親鸞聖人がその念仏為本より信心為本を勧められたのは『大無量寿経』そのものに据って願成就文から本願を見られたのである。『大無量寿経』には称南無阿弥陀仏の文は一ヶ所もない。願成就文にも称名はない。信一念の往生である。こゝから本願を見ると正しく信心往生である。乃至十念の称名は三信に収まって唯信独達の法門が成立する。行々相対より唯信別開の絶対門になって真仮廃立は完了するのである。

高森顕徹著『こんなことが知りたい(1)』
では彼ら邪義者の言う根拠はどうなるのかと申しますと、善導大師や源信僧都、法然上人が、称名正因が弥陀の本願のように教えられたのは、『観無量寿経』の下々品の往生に腰を据えて『大無量寿経』の本願文を見られたからなのです。それは、諸行に対して念仏易行を説かれたもので、これを行々相対の法門といいます。
ところが、親鸞聖人がその念仏為本より信心為本を打ち出されたのは、『大無量寿経』そのものに据わって、願成就文から本願文を見られたからなのです。『大無量寿経』には「称南無阿弥陀仏」の御文は一カ処もありません。願成就文には、称名念仏は誓われてなく、信一念で往生出来ると説かれています。
この本願成就文から弥陀の本願をみますと、絶対に信心正因になるのです。故に、本願の乃至十念の念仏は三信(信心)に収まって、唯信独達の法門が成立するのです。行々相対より唯信別開の絶対門になるのです。

伊藤康善著『安心調べ』P192
いざ鎌倉!という大事の無常が逼迫する時は、平素の喜びは何処へやら飛んで、この種の不浄言葉が出るものだ。ここは智恵や学問や聴聞では通れぬ難入難信の信一念であって、誰も彼も薄紙一重のところで誤魔化しているものの、怪しいと思う心は一つである。

高森顕徹著『会報第二集』
どんなに平生喜こんでいても、いざ鎌倉!という一大事の無常が逼迫する時は、平素の喜びや感謝や懺悔は何処へやら吹き飛んで煩悶し地団駄を踏んで死んでゆく。ゆく先が浄土ならよろしいが、こんな根性では無間地獄へ堕在するのは必定だ。ここは智慧や学問や合点では通れぬ。難入難信の信一念の関門を通っていないと、誰も彼も薄紙一重のところで、誤魔化されてはいるものの、怪しいと思う心は一つで疑心である。

伊藤康善著『安心調べ』P246
峻厳火を吐き、鬼気人に迫るような…。廃立の厳しい親鸞聖人の信念は、決して春画を見て手淫しているようなものではない。機の計らいを奪えるだけ奪い、罪悪の谷底へ落とせるだけ叩き落として、生死の断頭台上に生首を突き出してやる残忍毒語の説法がなくてはならぬ。

高森顕徹著『会報第三集』
たまに求道だの体験だの、獲信の世界を明らかに説く者があると、馬鹿坊主共は丁度、月経の上った女が嫁いじめや、まゝ子いじめをやる根性で、異安心じゃ、違っていると一斉にわめきたてて、よってたかって追放する。廃立の厳しい親鸞聖人の教えは決して春画をみて手淫しているような感情の遊戯ではないのだ。

高森顕徹著『会報第五集』
機の計いを奪えるだけ奪い、罪悪の谷底に堕せるだけ叩き堕して、生死の断頭台上に生首を突き出して下される峻巌火を吐き、鬼気迫る善知識の説法にあわなければ、突破出来ない難中の難の境地であることも牢記しておかねばならぬ。

高森顕徹著『こんなことが知りたい(4)』
生死の断頭台上に生首を突き出して下される、峻厳火を吐く善知識の説法にあい、宿善開発の一念でなければ通れない、難中之難の境地であることも申し添えておきましょう。

伊藤康善著『安心調べ』P254
しかし如何に有り難い同行に接し、名僧知識の教えを受けても仏法を求むる人自身に、真剣な求道心がなければ、結局畳の上の水稽古になってしまう。

高森顕徹著『会報第五集』
だから我々が如来の金剛信に徹せんとするには先ず何を置いても真の知識を求めねばならぬ。併し如何に尊い名知識の教えにあっても求める人に後生の一大事の真剣さがなければ結局は畳の上の水稽古になってしまう。

伊藤康善著『安心調べ』P254
命を捨てて法を求めよと言うが、それは形容詞ではなく実際命を捨てるのである。

高森顕徹著『会報第三集』
命をすてゝ法を求めよというが、それは単なる形容詞ではなく、実際に命を捨てるのだ。

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 1.高森顕徹氏と伊藤康善氏の著書の類似点(1)
 2.高森顕徹氏と伊藤康善氏の著書の類似点(2)
 3.高森顕徹氏と伊藤康善氏の著書の類似点(3)
 4.高森顕徹氏と大沼法竜氏の著書の類似点(1)
 5.高森顕徹氏と大沼法竜氏の著書の類似点(2)
 6.高森顕徹氏と大沼法竜氏の著書の類似点(3)
 7.高森顕徹氏と大沼法竜氏の著書の類似点(4)
 8.高森顕徹著『会報』に関する基礎知識

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