続・なぜ私は親鸞会をやめたのか

5.おわりに

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私は親鸞会に感謝しています

前回、私の書いた文章に対して、「『なぜ私は親鸞会をやめたのか』を読んで」と題した文章が発表され、それを読んだ私は、自分の言いたかったことが、正しく受け取られていないと感じましたので、このような形で、自分の述べたかったことを、再度、発表させてもらうこととなりました。

10代後半から20代前半という多感な時期において、「自分はなんの為に生きているのだろう」といった、人生に対する疑問をもち、自分の人生について、まじめに考えるのは、悪いことではないと思います。

しかし、限られた情報しか与えられず、論理的な思考なしに、いつしか一つのことを思い込むようになっていたのなら、まして、そのことに疲れを感じているのであれば、一度、落ち着いて、その歩みをとめることも大事なことだと思います。

私は親鸞会で10年以上もの間、生活のすべてを親鸞会の教義を基準に、少しでも、聴聞や活動に時間がさけないか、と考えて行動してきました。特に学生時代は、その思いは強烈でした。

しかし、今思えば、あの多感な時期に、親鸞会の教義以外に触れることができなかったことは、自分の精神的な成長を遅らせてしまったのではないか、と感じています。大変、バランス感覚を欠いた生活を送っていました。

ですが、親鸞会に出会い、自分の人生について、いろいろ考察を深めることが出来たことは、感謝しています。また、親鸞会で多くの人たちに触れた経験は、今後も活かされるのだろうと思っています。

親鸞会会員の皆さんへ

私は10年以上、幹部として活動してきた為、会員のご家族の方や、友人と数多く接してきました。そして、その会員が親鸞会に入会し、活動を続けていることで、周りの人たちと意見が衝突したり、中には親御さんはじめ、周りの方々が大変苦しい思いをされている姿も見てきました。

なんとか必死で子供を連れて帰ろうと、富山の本部まで来られる親御さん、部室まで怒鳴り込んで、息子の目を覚まさせようと必死になられるお父さん、下宿している息子が心配で、遠方から駆けつけてこられたお母さんなど・・・。

誤解やすれ違いがあるとはいえ、なぜ親鸞会で活動を続けることで、これほどまでに多くの人間関係の問題がおき、周りの人たちが苦しい思いをしなければならないのか、と悩んだこともありました。

また、自分の家族に対しても、両親や兄弟と口論となり、かなり苦しい思いをさせてきたと、今になってつくづく反省しています。 

なぜ意見が衝突するのか、そしてお互いを理解しあえず、深い溝ができてしまうのか・・・。今まで、同じ屋根のしたで、苦しみも喜びも分かち合いながら、平和に暮らしてきた家族や、ともに泣き笑い、親しくしてきた親友との心の溝が、どんどん深くなってしまう様子を、自分以外の人でも、また自分の周りでも、数多くみてきました。

私はこれ以上、親鸞会のことで苦しい思いをされ、悲しまれる人をみたくないです。願わくば、今後、親鸞会の活動で、苦しんだり、悲しむような人がこれ以上出てこないことを念じるばかりです。

これらの心の溝はどこから生じてくるのでしょうか・・・?

今まで書いてきたことですが、おそらく、会員の皆さんが「親鸞会の教義は大宇宙の真理である」と『信念により信じている』ことを、『論理的・客観的に理解している』、『したがって、話しを聞いてゆけば、誰にでも理解してもらえることである』、『なのに、なぜ私の両親は、友人は理解してくれないのか』『そんな人の気持ちは私は理解できない・・・』と、お互いの心に溝が深まってゆくのではないでしょうか?

親鸞会会員の皆さん、皆さんは「親鸞会の教義」を「信仰」されているのです。「信念により、信じておられる」のです。そのことだけは、しっかり自覚して、そして、その信念をなかなか理解できない人がいることも、よく分かって頂きたいのです。

親鸞聖人も、ご自身の教えを信仰することで、多くの人が傷つき、苦しまれることを決して望んではおられないでしょうから・・・。

親鸞会の会員として、これからも聴聞を続け、活動に専念されるも、されないもみなさんの自由だと私は思っています。それは、あくまで個人の信仰なのですから・・・。

そして、私は親鸞会での10数年の活動に終止符をうち、親鸞会が今後、どのようになってゆくのか、静かに見届けたいと思っています。

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 1.親鸞会で聴聞を続けて、本当に信心決定できるのか
 2.なぜ親鸞会の教義を大宇宙の真理だと思うようになるのか
 3.親鸞会におけるマインドコントロールの意味
 4.マインドコントロールの恐ろしさ
 5.おわりに

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