続・なぜ私は親鸞会をやめたのか

4.マインドコントロールの恐ろしさ

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マインドコントロールには自覚も悪意もない

今まで述べたように、親鸞会学友部で活動を続けてゆくと、教義の真偽に関係なく、思い込みが生じてきます。活動の中にそのような要因が多々あるからです。

教義に対する疑問が、活動を続けてゆく中で押し殺され、「正しいに違いない」と思い込むようになってゆくのです。これを「マインドコントロール」と言っているのです。

親鸞会の人は、「親鸞会はマインドコントロールを行っている」と言われると、大変むきになって怒る人が少なくないように思いますが、マインドコントロールと言っても、「いかにも悪徳商人が私服を肥やすために、客をだまして卑劣な心理操作をしている」といったものではありません。

前回も書きましたが、親鸞会の講師部員や幹部の人の中には、人間的には大変やさしく、人情味がある人もいます。学生をだまして、マインドコントロールを行い、お金を奪って私服をこやしている、といったことはもちろんですが、ありません。

しかし、逆に人間的にいい人も少なからずいて、本人たちも「自分がマインドコントロールを行っている」という自覚もなく、そして、受ける学生側も「自分はマインドコントロールを受けている」という自覚がないことが、一番恐ろしいのかもしれません。

以下、『マインドコントロールとは何か』(西田公昭・著)からの引用です。

マインドコントロールされている人とはいえ、ごく「ふつうの日常」にみえる環境に置かれ、目にみえるような明らかな強制的な力を何ら自覚することがないのがふつう なのである。

それだけに、マインドコントロールは、実に強力な影響力を発揮するものであっても、 本人のみならず、周囲のひとびとにも気づかれずに行使されていることが多いのである。

このことは、マインドコントロールされて破壊的カルトのメンバーになっていると思う、 自分の子どもや知人に向かって、「あなたは自分の言葉で考えていない、自分の頭で考えてほしい」と訴えかけてみればわかる。本人にとってみれば、あくまで「自分の頭で考えている」つもりであり、いくら知人や家族が繰り返し言っても、その主張している意味をまったく理解しないものである。

 (西田公昭・著『マインドコントロールとは何か』 P52) 


私は、「親鸞会の教義」を『論理的・客観的に理解して納得した』ものだと思っていました。しかし、それは間違いでした。そうではなくて、『信念により信じていた』のです。もう少し分かりやすくいうと、正しいにちがいないと『思い込んでいた』のです。

最終的には、親鸞会が用意した解答を丸呑みにして、『信じ込んでいた』のですが、あたかも、自分が『論理的に明晰に理解した』かのように思っていたのです。

さきほどの引用に書かれていたように、私は最終的に、自分の頭で考えるのをやめ、 思考停止をして、「親鸞会の教義は大宇宙の真理である」と『信じ込んでいた』のですが、 自分では、『思考停止をした』などとも『信じ込んでいた』ということも、まったく自覚はなく、あくまで『自分でしっかり論理的に考えて、正しい選択をした』のだと、思っていたのです。

ここに、マインドコントロールの恐ろしさがあります。この技術を用いる側の人も、受ける側の人も、誰にも悪意はないのです。この悪意のなさが、人を傷つけ、大変な影響を与えるのだと思います。悪いという自覚がないので、その影響が大きくなるのです。

そして、人の一生に決して少なくない影響を与える信仰の問題を、このような手法によって、「教義の真偽に関係なく、信じ込ませる」訳ですから、そのマインドコントロールが解けたあとの人は、精神的に大変な苦しみを受けます。

「なぜ自分は、あんな教えを信じていたのか・・・」
「この数年間、親鸞会のために使った時間やお金、労力はなんだったのか・・・」
「親鸞会以外に人間関係を築いてこなかったが、これからどうすればいいのか・・・」

といった悩みをもつ人が少なくありません。

学生時代は、毎日のように「親鸞会の教義こそ大宇宙の真理」と信じている先輩や講師部員に囲まれて、一日の大半の時間を過ごして、自分でもそのように信じていた人が、いったん社会に出ると、自分が論理的に納得して大宇宙の真理だと理解していた 「親鸞会の教義」も、宗教的信念により、信じているに過ぎなかったのだと思うようになり、親鸞会をやめる人が少なくない、という事実からも、親鸞会の学友部の活動の中で、 教義の真偽に関係なく、信じ込ませる作用が働いている、という証拠ともなるでしょう。

もちろん、社会に出ても「親鸞会の教義こそ大宇宙の真理」という信念を持ち続け、会員として求めている人もあります。

しかし、その割合は大変低いと思います。学友部の責任者をしている人が、「学生が卒業したら大半はやめてしまうので、自分たちの活動は意味があるのか、と思うと泣けてくる」と言っていたこともありますので。 

親鸞会におけるマインドコントロールと思われるもの

私は「親鸞会が意図的に、マインドコントロールの手法を学んで、活動の中で行っている」とは言いません。

しかし、マインドコントロールということについて、いろいろ勉強してゆくとあまりにも、マインドコントロールの手法と、親鸞会学友部の活動の中で行われていることが類似しているのです。

私は親鸞会で幹部として、新入生を勧誘し、先輩たちを育成する立場にいたので、自分の目でみて、そして体験したことから、「親鸞会におけるマインドコントロールと思われるもの」について、これから説明したいと思います。

以下、マインドコントロールについて書かれた書籍を引用しながら、説明いたします。

『マインドコントロールとは何か』西田公昭・著 より

メンバー獲得のときに、組織名やその活動内容や目的を隠し、一般に人が警戒心をもちにくい、別のダミー組織を名乗って接近するという組織もある。

(西田公昭・著『マインドコントロールとは何か』 P16)

親鸞会学友部では、新入生を勧誘するときに、「親鸞会」とは一言も名乗りません。 全国の多くの大学に、親鸞会のサークルが存在していますが、自分たちが「親鸞会」だとは、絶対に名乗りません。

「浄土真宗親鸞会」という宗教法人として認可された名前があり、部室の名義もほとんどは、その宗教法人名であり、部室の家賃なども、親鸞会が出資しているにもかかわらず、「親鸞会」という名前は、最初の勧誘では一切明かされません。

そして、「高森会長の説法を聴聞しに、富山県にある本部会館に毎月行く」ことや「財施と言って、献金をすすめられること」など、最初は一切説明されなかった自分たちの活動の中身を、新入生に対して、次々と小出しにしてゆき、いつのまにか、本人の意志で納得して選んだ形をとるのです。

もちろん本人が選んだ選択ではあるのですが、あとになって「自分はなぜあんな活動を続けていたのだろう」と言う人が、少なからずいることも、付け加えておきたいと思います。

もし、メンバーが、何らかの理由により、その集団にとどまる魅力を失って、離脱したいと思っても、身体的、精神的、あるいは、社会的に離脱してゆくのが困難な状況が形成されている。

もし、ある個人がその組織を脱会しようとしても、新しい生活の支援となる社会的・経済的基盤が存在しないのである。

(西田公昭・著『マインドコントロールとは何か』 P17)

「親鸞会をやめたい」と言うと、暴力で脅される、といったことは一切ありません。しかし、多くの人は「先輩やサークルのメンバーに、今まで散々親身になってもらってきたので、今さら、これらの人を裏切ることは出来ない」という心理状況になります。

また、親鸞会の活動は、毎日のように昼休みや放課後、そして土日も行われているので、人によっては、親鸞会のサークル以外の人間関係を築いてこなかったため、サークルを抜け出しても、行くところがないので、「親鸞会をやめることで、自分はひとりぼっちになってしまうのでは・・・」という恐れから、なかなかやめられない、という人も事実、存在しています。

精神面において、その集団内だけが安全な場所であり、集団の外部に出ることは、身の破滅につながるというように、神経症的な恐怖感を植えつけられている場合も少なくない。

(西田公昭・著『マインドコントロールとは何か』 P17)

新入生が、親鸞会のメンバー以外の友達と付き合うこと(特に他サークル)を、 あまり快く思わない先輩が多いのが事実です。

サークル内では、新入生同士であっても「引き離し対策」といって、新入生同士で交流をもつことは、ほとんど出来ないように、先輩たちの監視の目が行き渡っています。最初の頃に、新入生同士がケータイのメールアドレスを交換しようとすると、先輩たちはできるだけ、それを阻止しようとします。

この行動の背景には、自分たちの集団の外の人たちを、「『どう生きるか』しか知らない人たち」というカテゴリーでひとくくりにする発想があるからだと思います。それらの人は「親鸞会の教義は大宇宙の真理」だと理解しておらず、えてして、自分たちの活動を反対してくるので、できるだけそれらの人に、新入生を近づけないようにするのです。

私も、おかしいと思いながらも、必死になって、メールアドレスを交換しようとする新入生の間に割って入ったり、同じ方向に帰る複数の新入生がいれば、自分の帰る方角でもないのに、「今日はこちらに用事があるので」などと言って、それらの新入生たちが、バラバラに別れるまで、ついていったことも、1度や2度ではありません。 

また、下宿生が実家に帰省するときなども、家族や地元の友人との接触が縁となって、自分たちの集団から離脱してしまわないかと、先輩たちは大変心配しています。実家に長く滞在して、連絡がない人に対して、実家に電話をかけ、安否を確認する、といったこともありました。

「親鸞会の教義が大宇宙の真理」であり、親鸞会以外の人たちは、「なぜ生きるか」の人生の目的を知らず、「どう生きるか」に一生懸命の人だと、強く思い込むようになると、下宿生の中には「できるだけ実家には長居しないほうがいい」という発想になってきます。また、そのように先輩からもすすめられます。「せっかく、実家に帰ってきたのに、なぜこんなに早く戻ってしまうのか」と不信がられるご家族の声を、私はたくさん聞いてきました。

その悪事と見える行動を、メンバーには特有の論理でもって正当化し、納得させている。こうしたことを納得させる心理操作のテクニックが、「マインドコントロール」である。

(西田公昭・著『マインドコントロールとは何か』 P21)

ここには悪事と書かれていますが、親鸞会では、オウム真理教のような「殺人」「拉致」といった反社会的行為が行われているのではありません。

しかし、親鸞会以外の多くの人には、なかなか理解しがたい行為もあります。ところが、会内の人たちは、それらを正当化させる理論をことごとくもっているのです。

たとえば、親鸞会の学友部の新勧において、「浄土真宗親鸞会」という宗教法人名や、宗教の集まりであることを名乗らないのは、会の中では、「嘘」ではなく、「配慮」だと言っています。

「全人類を幸福に導く大宇宙の真理」を説いている親鸞会に導くためには、嘘であっても、これは良いことなのだから、「配慮」になるのだ、という論理です。親鸞会のマニュアルにも「方便としてウソをついている」とか、「ウソをつくことに、これっぽっちも後ろめたさをもってはならない」と書かれています。私も何年もの間、自分にそのように言い聞かせて、それが正しいことだと、まったく疑いもなく、勧誘を行ってきました。

しかし、本当に親鸞会に入信させることが良いことなのかどうかは、まったく主観的なものであり、個人の選択に任されるべきものでしょう。ですから、自分たちを宗教法人と無関係のように装ったり、宗教であることを名乗らないのは、かなり問題があるように思います。

以下は『マインドコントロールの恐怖』(スティーヴン・ハッサン著)からの引用をもとに
私が体験してきて感じたことです。

大きなカルトは必ず「販売員」を上手に訓練する方法を心得ている。彼らはメンバーに、組織の一番良い面だけを見せるように教え込む。メンバーは、自分の集団について感じる否定的感情は全部おさえて、いつも「しあわせな」笑顔をするように教わっている。

(スティーブ・ハッサン著『マインドコントロールの恐怖』 P83)

親鸞会学友部では、その勧誘方法は高度に練り上げられ、マニュアルも作られ、年々、脈々と受けつがれています。

そして、さきほど述べたような「宗教法人であることを名乗らず勧誘すること」をはじめ、親鸞会の活動に対して、自分の心の中に後ろめたい感情が出てきても、「こんなことを思ってはいけないのだ」「会の活動方針や、周りの人が悪いのではなく、自分が間違っているのだ」と思うようになってゆきます。こうして、否定的な感情はおさえられてゆきます。 

そして、いつも笑顔でいることを要求されます。新入生が来ている中で、先輩が暗い顔をしているのと見つけると、「先輩がそんな暗い顔をしていてはならない」とか「先輩たちがそんな疲れた様子を見せてはいけない」と、注意を受けます。私も言われてきましたし、後輩にもそのように注意してきました。

学友部の集まりに来られたある学友部員の親御さんが、あとで「みんな同じ顔をしている。怖かった。」と言われてたことが、私は忘れられません。

このように、マインドコントロール関係の書籍を読んでいると、私が親鸞会、特に学友部の活動で経験してきたことと類似することや、まったく同じと思われることが、多々出てきました。

まだまだ、書けばキリがないのですが、このように「マインドコントロールといわれるもの」と、「親鸞会の活動」との類似点が多々あるのです。

少なからず、自分が経験してきたことですので、私は「親鸞会ではマインドコントロールが行われているのではないか」と感じているのです。

しかし、何度も言っておきますが、親鸞会が意図してマインドコントロールの手法を学んで、活動の中に取り入れている、というよりも、長年、研究され、開発されてきた親鸞会の活動の中において、結果的にマインドコントロールと類似していると思われる手法が、用いられるようになったのではないか、と私は思っています。

しかし、意図したものであろうとなかろうと、結果的に、親鸞会学友部の組織の中にいる人たちは、その影響を大きく受けていると思われます。

それは、何度も書いていますが「親鸞会の教義を大宇宙の真理である」と、論理的な説明もなしに、『信じている』人たちが少なくないことと、そして、それらの人たちが、「自分は『信じている』のではなく、『論理的・客観的に理解しているのだ』」と思っているからです。

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 1.親鸞会で聴聞を続けて、本当に信心決定できるのか
 2.なぜ親鸞会の教義を大宇宙の真理だと思うようになるのか
 3.親鸞会におけるマインドコントロールの意味
 4.マインドコントロールの恐ろしさ
 5.おわりに

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