続・なぜ私は親鸞会をやめたのか

3.親鸞会におけるマインドコントロールの意味

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親鸞会に入信させる過程でマインドコントロールが行われているのでは

「親鸞会ではマインドコントロールが行われている」という批判がありますが、それに対しても、このような解答が書かれていました。

高森先生が教えられることも、この信心決定という体験のあること、これこそが真の人生の目的であること、これ一つです。いつも、講演のはじめに、蓮如上人の遺言を述べてから説法されますが、心はまったく同じなのです。

この体験は、マインドコントロールとか、思い込みとか、自己陶酔といったものとは、まったく次元の異なるものです。それらを仏教では、自力の信心といいますが、その自力の信心がすべて廃った、まったくの他力の世界です。体験した人には、火にさわったよりもハッキリします。まさに、驚天動地、真実としかいいようのない体験なのです。

(『「なぜ私は親鸞会をやめたのか」を読んで』 5、信心決定はユートピア?)


ここでは、「信心決定の体験は、マインドコントロールといったような安っぽいものではない」といいたいのでしょう。私も「信心決定の体験がマインドコントロールなのだ」とは思いません。それは、立派な宗教体験なのでしょう。

「親鸞会ではマインドコントロールが行われている」という批判は、「親鸞会に入信させる過程でマインドコントロールが行われている」ということではないでしょうか。

「信の一念の体験」のことを言っているのではありません。マインドコントロールによって、信心決定したと思い込ませている、ということを言いたいのではありません。それは、儀式により信心を授ける「土蔵秘事やそれに類するもの」か、それに近いのではないでしょうか。 

私の言っている「親鸞会ではマインドコントロールが行われている」というのは、「教義の真偽に関係なく、信じ込ませる作用が学友部の活動を続けてゆく中で働いている」という意味です。

何度も申しますが、「親鸞会の教義」には、どう考えても最初は受け入れられないものが少なくありません。「反証不能な因果の道理の真実性」や「三世」「必堕無間」「阿弥陀仏」などなど。

しかし、とても理解しがたい教義でも、活動を続けてゆくと、「これこそ大宇宙の真理」と信じ込むようになってくるのです。そこには、前回も少し書きましたが、以下のような様々な作用が働いていると思います。

費やした努力や金銭、時間があまりに大きかった

人間の心理として、費やした努力や金銭、時間が大きいほど、「自分の努力が無駄であってほしくない」 「自分の選択が間違いであってほしくない」という期待や先入観は大きくなるものです。

たとえば、時間については、学生時代は、ほぼ毎日、親鸞会の活動に参加していました。平日は、毎日のように昼休み、そして放課後に部会があり、参加していました。そして授業のない、土曜や日曜も、ほとんどすべて活動が入っており、私はほぼすべての行事に参加していました。

次に金銭についてですが、高森会長の御法話をはじめ、毎日の部会でおさめる御法礼、そして、様々な御報謝、そして交通費や宿泊費、また、親鸞会発行の書籍や、親鸞聖人のアニメをもとめるための代金など、少なくとも年間50万、幹部になった大学時代の後半や、大学卒業してからは、年間100万以上は、親鸞会関係のお金を費やしてたと思います。

そして勧誘活動にはすべて参加し、毎日、後輩への話し込みなどしていましたので、精神的にも、肉体的にも、かなりの労力をそそいで活動していました。特に勧誘活動は、肉体以上に、精神的にかなりつらいものがありました。

もちろん、すべて信念ではね返していましたが、決して、楽なものではありませんでした。これは、経験したことのある人なら、分かると思います。

こうして、私は自分のもてる時間、お金、体力、そして精神力を費やして、親鸞会の活動に専念してきました。ですから、「これらの努力が無駄であってほしくない」「自分の選択が間違いであってほしくない」という期待や思い込み、先入観は、どんどん強くなっていったと思います。

偏った情報しか入ってこなかった。

私は平日も、土日も、多くの時間を親鸞会の活動にあてていましたので、「親鸞会の教義」を信じている人たちと接している時間がほとんどでした。そして、毎日、同じ内容を繰り返し、聞き続け、また自分でも、まわりの人に、繰り返し話しをしてきました。

結果的には、親鸞会に反対するような情報はあまり入ってこなくなり、「親鸞会教義こそ、大宇宙の真理である」との信念は、ますます強固なものになっていったと思います。

権威付けにより、無条件に「正しい」「素晴らしい」と思い込むようになる

最初の頃は、先輩たちに疑問をぶつけていた私でしたが、やがて自分の質問にも妥協するようになってゆき、次第に活動にのめりこんでゆきました。そうなると、「親鸞会の教義こそ、大宇宙の真理である」との思いは、上記のような作用により、だんだん強くなってゆき、次第に、「親鸞聖人やお釈迦様の言われたことだから」とか「高森会長がおっしゃっていることだから」といった理由で、無条件で受け入れるようになっていったと思います。

また、そうしなければ活動についてゆけませんでしたし、親鸞会のことを批判することに、かなりの罪悪感を感じ、「そんなことを考える自分が間違っているのだ」という気持ちになっていったと思います。

このような要因から、私はますます親鸞会の活動にのめり込んでゆき、「親鸞会の教義は大宇宙の真理である」と思うようになりました。

ですので、親鸞会の学友部で活動している人は、最初に自分の中にあった疑問が、

 ・どのあたりで、棚上げ状態になったか

 ・いつ頃から、自分の中にある疑問を問うことをやめ、妥協するにいたったのか

一度振り返るといいのではないでしょうか。必ずそのような段階があるのだと思います。 自分の中にあった疑問が、論理的な説明を受けて、解消されたのではないと思われます。

なぜなら、自分の心に論理的に問いただせば、今でも、その疑問はあるからです。 その疑問に対して、今でも自分で論理的に説明ができずにいるからです。 「親鸞会の教義は大宇宙の真理」だと思うようになったのは、「論理的な説明を聞いて 納得した」のではなく、「信念により信じた」のです。 

もし、誰かから「なぜ、反証不能な因果の道理なのに、それを真実だと理解できるのですか」とか、「死後の世界があるだなんて、どうして理解できるのですか」「死後、必ず無間地獄に堕ちるなどと、なぜ断言できるのか」と聞かれたら、おそらく、誰も言葉で論理的に説明できる人はいないのではないでしょうか。

たまに新入生相手に、「死後の証明をしてみせる」と言って説明をし出す講師の人もいますが、論理の穴はいくらでもあり、そこをつかれたら、反論できないと思います。

なぜ、親鸞聖人の言葉を書かなかったのか

『「なぜ私は親鸞会をやめたのか」を読んで』では、「なぜ親鸞聖人の言葉がまったくないのだろう」と疑問が述べられています。

そのことについて、私の気持ちを述べたいと思います。

親鸞聖人の言葉は、親鸞会でも教えられていますが、ほとんどが信心決定した後の、信後の世界についての言葉です。親鸞聖人が信心決定という宗教体験をされ、その体験から発せられた言葉なのでしょうが、私にとっては、その体験して知らされることの内容が、分からないので質問しているのです。

それは先ほども書いてきましたように、「反証不能な因果の道理を、どうして大宇宙の真理だと思えるのか」「なぜ、死後は必ず無間地獄におちるなどと、断言できるのか」「三世や阿弥陀仏といったものの存在を、どのように論理的に理解できるのか」という疑問です。

この疑問が解消されていないのに、なぜ私が親鸞会をやめるのか、という気持ちを書くにあたって、「親鸞聖人の言葉」が出てこないのは、当たり前とも思うのですがいかがでしょうか?

私としては、「親鸞聖人」や「釈尊」が説かれた世界について、何も知らない新入生に対して、「これこそが大宇宙の真理だ」と親鸞会学友部では言われるのですから、「なぜ、親鸞会の教義が大宇宙の真理と言えるのか」が分かるように、論理的に説明してほしいのです。

「親鸞聖人や釈尊が言われたことは間違っている」とは私は言っていませんが、「それが大宇宙の真理である」とは、無条件では理解できかねます。

親鸞会学友部で話を聞いても、論理的に理解できないことが多々あるので、「誰でも聞けば論理的に理解できる」と言うのなら、説明してほしい、と言っているのです。

もちろん、宗教を信仰するということですから、言葉で説明できないことを 「宗教的信仰」により「信じる」のは、人それぞれ信教の自由でしょうが、自分たちが「信念により信じている」ことを、「大宇宙の真理だから、聞けば誰でもわかる」と、論理的・客観的根拠があるかのように話し、そしてその活動の中において、自分たちの主張を信じさせる要素を多々含んでいることには、かなりの疑問と問題点を感じるのです。

ですから、私が親鸞会、特に学友部の人たちに言いたいのは、

 ・自分たちが宗教を信仰している宗教者であるという自覚をしっかりともつこと

 ・自分たちが思っている「親鸞会の教義は大宇宙の真理である」との思いは、
 信念により信じた結果、自分の中で認めていることだと、しっかり自覚すること


そう自覚することによって、「どれだけ話しをしても理解してもらえない場合もある」ことや、「自分たちを理解してくれない人がいること」をしっかりと受け止めることが出来るのではないでしょうか。

「自分たちは大宇宙の真理を知らされ、全人類の幸せの為に活動しているのに、どうして家族や友人や、周りの人は理解してくれないのだろうか」と思っている人もあるかもしれませんが、それは、もっている信念が異なるからでしょう。

私は、親鸞会、特に学友部の人たちが、自分のことを正しく理解することによって、家族問題や友人関係の悩みなど、多くの問題を解決したり、また、自分を理解してくれない周りの人の気持ちも、しっかりと理解できるのではないかと思うのです。

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 1.親鸞会で聴聞を続けて、本当に信心決定できるのか
 2.なぜ親鸞会の教義を大宇宙の真理だと思うようになるのか
 3.親鸞会におけるマインドコントロールの意味
 4.マインドコントロールの恐ろしさ
 5.おわりに

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