続・なぜ私は親鸞会をやめたのか

2.なぜ親鸞会の教義を大宇宙の真理だと思うようになるのか

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「そうにちがいない」「そうであってほしい」と「信じている」

私は「『親鸞会の教義が大宇宙の真理だ』と主張は、信念により信じているに過ぎないのでは」といった内容を書きました。それは、私が多くの先輩に質問しても、どうしても、論理的に理解できないことが、少なくなかったからです。
 
それは、「反証不能な因果の道理の真実性」や「三世」「必堕無間地獄」「阿弥陀仏」といったことです。多くの学生が同じ疑問を抱いています。しかし、いつの間にか、そのような質問をする人はどんどん減ってゆき、みんな従順になってゆきました。

私は最後まで質問していましたが、何だか私だけが質問するのも、なかなかやりづらい状況になって、やがて、私も自分の中の質問を棚上げにして、活動にのめりこむようになってゆきました。

もちろん、疑問が解消された訳ではありませんでした。

しかし、私のこの疑問に対して、『「なぜ私は親鸞会をやめたのか」を読んで』の中に、

「じゃあ、どんな質問にも答える、というのは嘘か」と反論するかもしれませんが、決して嘘ではありません。事実、多くの先輩たちが答えてくれたはずです。しかし、この人には、納得できなかったということです。

世の中には、言葉で説明しきれないことはいくらでもありますし、どんな論理的な説明も、相手によっては、納得してもらえないことも、よくあることです。その人の智恵や学問、経験などによっても、違うでしょう。そういえば、「バカの壁」などという本もありましたね。
  
しかし、だからといって「俺の納得できないことは、嘘だ」というのでは、あまりにも子供じみた、幼稚な考えではないでしょうか。

(『「なぜ私は親鸞会をやめたのか」を読んで』 2、親鸞聖人の言葉 その1 歎異鈔)

このような部分があります。言われていることはよく分かります。

しかし、私は自分の疑問に対する、論理的に理解できる説明は受けてはいません。「こちらは説明したが、あなたが納得しなかっただけ」というものでは、決してありません。

その証拠に、「反証不能な因果の道理をどうして大宇宙の真理だと判断できるのか?」「三世や阿弥陀仏といったものの存在を、どのように論理的に理解できるのか?」「なぜ、死後、無間地獄に堕ちるなどと断言できるのか?」といったことを、講師部員や幹部会員に聞いても、おそらく「論理的な説明」は返ってはこないでしょう。

「親鸞会の教義を大宇宙の真理である」と思っているのは、因果関係が示され、論理的に解しているのではなく、信念により「そうにちがいない」「そうであってほしい」と「信じている」のです。

それとも、親鸞会、特に学友部で活動している講師部員や先輩たちはみんな、論理的に言葉で説明を聞いた上で「なるほど、だから反証不能な因果の道理も、三世も、阿弥陀仏も、すべて大宇宙の真理なのか!」と理解されたのでしょうか。

何度も書きますが、親鸞会の会員の人たちが、「親鸞会の教義は大宇宙の真理である」と思っているのは、「信念により信じている」からです。

親鸞会学友部の勧誘における問題点

私も学友部で活動している間、「親鸞会の教義は大宇宙の真理である」と「論理的に、客観的に理解した」と思っていました。しかし、そうではなかったので「信念により信じていた」のです。

宗教的な信仰により、「親鸞会の教義」を信じるのは、個人の自由ですし、私はそのような価値観の人があってもいいと思っています。

しかし、私が問題だと思うのは、「信念により信じている」ことなのに、「話しを聞いてゆけば、誰でも論理的に納得ができる」「話されることはすべて真実なので、まともな人なら誰でも論理的・客観的に理解できる」と言って、親鸞会学友部では勧誘が行われていることです。

つまり、勧誘を行っている講師部員や先輩たちの多くが、「親鸞会の教義は大宇宙の真理である」ということを「信念により信じている」のに、自分では「論理的・客観的に理解した」のだと思っているのです。私もずっとそうでした。しかし、この思いは間違いでした。

私は親鸞会学友部の活動の中には、「教義の真偽に関係なく、信じ込ませる作用がある」と考えています。活動の流れにのって、毎日のように部会を聞き、周り中、「親鸞会の教義こそ大宇宙の真理である」と信じている先輩や講師部員に囲まれていれば、自分もいつしか、同じような気持ちになり、「親鸞会の教義は大宇宙の真理である」と信じるようになるのだと思っています。これは私が実地に体験してきたことです。

そして、『「なぜ私は親鸞会をやめたのか」を読んで』中に、こんな文章もありました。

そして、これらは反証不能だと言っています。そのとおりです。 なぜなら、これらはいずれも仏説であり、大宇宙の真理そのものなのです。そして、 それがまったく疑いなくハッキリ知らされるのが、信心決定という体験なのです。

(『「なぜ私は親鸞会をやめたのか」を読んで』 2、親鸞聖人の言葉 その1 歎異鈔)

教義的に言えば、信の一念ですべてが、「そうであったのか」と知らされるということでしょう。言われることはよく分かりますし、私も人に、このように話しをしてきました。

ですから、信心決定した人にとっては、なるほどそうなのかもしれませんが、信前の人にとっては、あくまで、想像の世界に過ぎず、「信心決定したらそうなるのか、と『信じている』」ということでしょう。

少なくとも、「反証不能な命題」ですので、言葉で論理的に説明できるものではない、ということです。それは、この人自身が「体験によって知らされる」と書いている通りです。体験しなければ分からないことであり、論理的・客観的に言葉で説明できるものではない、ということです。

親鸞会学友部で、部会を聞き続け、そして様々な活動に身を投じてゆくと、「親鸞会の教義こそ、正しいに違いない」「親鸞会の教義こそ、大宇宙の真理」だと『信じようと思う』心理が、少なからず働きます。まじめに活動して、のめる込んでいる人ほど、そうなります。私もそうでした。

そして私はそれが、「マインドコントロール」なのではないか、と思うのです。

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 1.親鸞会で聴聞を続けて、本当に信心決定できるのか
 2.なぜ親鸞会の教義を大宇宙の真理だと思うようになるのか
 3.親鸞会におけるマインドコントロールの意味
 4.マインドコントロールの恐ろしさ
 5.おわりに

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