続・なぜ私は親鸞会をやめたのか

1.親鸞会で聴聞を続けて、本当に信心決定できるのか

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多くの会員が抱えている疑問

まず、『「なぜ私は親鸞会をやめたのか」を読んで』では私の文章を読んで、

「この方の退会の理由は、『信心決定という体験があるとは思えない』という一点に集約されているようです」

「そもそも信心決定の体験自体を否定しているのですから・・・」

(『「なぜ私は親鸞会をやめたのか」を読んで』 6、因果の道理が分かっていない)

と述べられています。

私は、「信心決定という体験があると思えない」「信心決定なんて、どうせ嘘っぱちだ」などと、言った覚えはありません。信心決定の体験自体を否定してはいません。信心決定の体験はあるのだと、私は思っています。

私が言いたいのは「親鸞会で聴聞を続けて、信心決定できるのか」ということなのです。これは多くの会員の人が抱えている疑問です。私の周りにもたくさんいましたし、私が幹部として活動していた時にも、このような質問をしてきた人が数多くいました。

だからこそ、親鸞会の講師部員や幹部会員の中で、信心決定している人がいたら教えてほしい、そして私だけでなく、同じ気持ちを抱いている人たちの疑問を晴らしてほしい、と言っているのです。

この人の文章の中でも、

ハッキリ申します。人生の目的なのです。大宇宙の真理を体得するということなのです。そんなに簡単に分かるものではありません。しかし、真剣に聞き求める人には、必ず分かります。人生究極の目的がハッキリするときが必ず来るのです。それが、弥陀の誓願なのですから。

(『「なぜ私は親鸞会をやめたのか」を読んで』 5、信心決定はユートピア?)

とありますように、自信一杯語られるのなら、親鸞会で「真剣に聞き求めている人」や、今まで「真剣に聞き求めてきた人」がいる訳ですから、もし本当に、親鸞会で聴聞を続けてゆけば、信心決定できるのなら、それらの人の中から、「私は信心決定しました」という人があらわれてほしいのです。

しかし、少なくとも、私が10数年幹部として活動し、接してきた多くの講師部員や幹部会員の中には、信心決定したと明言している人は一人もいませんでした。それとも、信心決定した人はいたのでしょうか。この反論を書かれた人はもしかしたら、信心決定した人なのかもしれません。反論を書かれたあなたは、信心決定されましたか?親鸞会で聴聞を長年続けておられる方だと思いますので、教えて頂きたいと思います。

親鸞会発行の法戦4について、前回も少し書きましたが、歎異抄研究会(親鸞会)は仏教哲学研究会(創価学会)に対して、「法華経には仏になる教えが説かれているが、実践不可能な高嶺の花であり、絵に描いたモチのようなもの」だと言っています。
 
私が「親鸞会の教義」における信心決定について言いたいのは、まさにこのことなのです。信心決定という宗教体験は、あるのだと思います。しかし、疑問なのは「親鸞会で聴聞を続ける講師部員や幹部会員の中に、果たして信心決定した人がいるのか?」ということなのです。
 
「まじめに聞けばハッキリするときが必ず来る」「誰もが信心決定できる」というのなら、信心決定した講師部員や幹部会員がいて、もちろんいい訳ですし、いるならその人の名を示してほしい、そして、私をはじめ多くの人の疑いを事実によって、少しでも晴らしてほしい、と言っているのです。
 
私は前回の文章に「信心決定が嘘っぱちだ」とは、書いてはいないと思います。私の言いたいのは「親鸞会でまじめに聞けば、本当に誰でも信心決定できるのか」ということなのです。 

講師部員が信心決定の体験を語らないのは、語れないからではないのか

私は前回の文章で、「講師部員や幹部会員の人たちの中で、信心決定している人は、本当にいるのでしょうか」と書きました。

それに対して、今回、このように解答されていました。

これには大切な理由があります。救われた生々しい体験は一人一人まったく違うもので、たとえそれが真実の体験であったとしても、それを具体的に語って聞かせることは決して相手のためにならないからです。

(『「なぜ私は親鸞会をやめたのか」を読んで』 6、因果の道理が分かっていない)


「救われた生々しい体験を語らない」理由は、私も教義的によく分かります。私が聞きたいのは、「講師部員や幹部会員の中に、信心決定している人が本当にいるのか」ということなのです。別に生々しい体験を語ってもらわなくてもいいです。

生々しい体験でなくても、信心決定して、信後の喜びを語っている人など、いないのでしょうか。親鸞聖人は「生々しい体験」こそ語られていませんが、「信後の救われた喜び」は随所に語っておられます。そのような「信後の喜び」を講師部員や幹部会員の中で語っている人を私はみたことがありませんし、そのような「信後の喜びの言葉」を聞いたことがありません。

信心の「生々しい体験」など別に語らなくても、本当に信心決定している人なら、「私は信心決定しました」と断言し、「信後の喜びの言葉」を語ることは、いくらでもできるはずです。

もちろん、誰が信心決定していようが、自分がしていなければ、自分の体験にはならないのはその通りですが、もし、信心決定している人がいないのなら、「親鸞会で聴聞を続ければ必ず信心決定できるのだ」という主張も、なんだか説得力にかけるように思います。私の疑問は「親鸞会で聴聞を続けて、本当に信心決定できるのか」なのです。

信心決定している講師部員や幹部会員はいるのか、いないのか。
そして、いるというのなら、誰なのか。

「イエス」か「ノー」の二者択一なので、簡単に答えられる質問だと思います。そもそも、親鸞会発行の『法戦4』で歎異鈔研究会(親鸞会)が仏教哲学研究会(創価学会)にした質問と同じです。自分たちがした質問なので、容易に答えられると思いますが、いかがでしょうか。

この質問にすぐに答えられないとしたら、それこそ、「親鸞会の講師部員や幹部会員には一人も信心決定した人がいないのでは」と思われても仕方のないことではないでしょうか。

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 1.親鸞会で聴聞を続けて、本当に信心決定できるのか
 2.なぜ親鸞会の教義を大宇宙の真理だと思うようになるのか
 3.親鸞会におけるマインドコントロールの意味
 4.マインドコントロールの恐ろしさ
 5.おわりに

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