なぜ私は親鸞会をやめたのか

5.なぜ、親鸞会に居続けるのか

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なぜ、親鸞会に居ても信心決定出来ないだろうと、多くの人が内心思っているのに、親鸞会に居続けるのか。自分の心を見たときに、以下のような理由が考えられました。

桃源郷を求めて

人生というものは、自分の思い通りにならないことばかりで、長く生きれば生きるほど、多くの苦しさを感じるもの、と実感している人は少なくないのではないか、と思います。

そんな人生にあって、「どこかに本当の幸せになれる世界があるのではないか」と考える人類の発想は、過去多くの人たちが抱いてきたものだと思います。

そのような本当の幸せの世界が、「ここではないどこか」にあって、人はそれを「ユートピア」とか「桃源郷」「ガンダーラ」「シャングリラ」などという言葉で表現してきたように思います。

親鸞会の人たちは、そんな理想郷を求めて夢見る人たちだと、私は思います。いつかはできるのかもしれない、「信心決定」を夢見て、果てしなく追い求める人たちだと接していて感じました。

これはあくまで例えですが、親鸞会の会員の人たちは、人間の願望である「不老不死の薬」を求めて、永遠に旅する人たちのようにも感じます。(もちろん、信心決定=不老不死ではありません)

手塚治虫の漫画『火の鳥』にも、そのような人間の願望が、描かれています。親鸞会の会員の人たちをみていると、どこまでも、どこまでも、見つかる可能性の分からない、そんな理想を求めて夢見る人たちのように、感じました。

居心地のよさを求め、親鸞会に居続ける

人は生きていく中で、様々な人間関係にもまれ、多くの苦難を体験し、自分でも気づかないような心の傷を負っている人は少なくないように思います。

そして、私もその一人だと思います。

私は「親鸞会の教義」を聞いて、「確かに論理的に納得できる話しばかりだ」「まやかしものの多い宗教の中にあって、親鸞会こそ、真実を教えた唯一の団体だ」と思っていました。

しかし、「親鸞会の教義」は「論理的で合理的な、誰もが聞けば納得する話し」でないことは先ほど、述べたとおりです。

では、なぜ私は親鸞会に魅かれていったのかと考えると、やはり私もまた、自分でも分からない心の傷をいやしてくれる何かを求めており、それを親鸞会に見出したのではと、思います。

もちろん、私は信心決定したくて、それが目的で親鸞会に入会し、そして今では、このまま親鸞会で聴聞を続けても、信心決定は出来ないだろう、と感じ、やめました。

そんな私でも、親鸞会に癒しを求め、居心地のよさを感じ、なかなかやめることを決断できず、親鸞会に居続けたというのは、否定できないところです。

当初の目的であった信心決定は、今はもう理想にすぎず、親鸞会会員として居続ける本当の目的は、もうそこにはなく、「心に傷をおった自らの居場所」を親鸞会に求める人もいるのかもしれません。

これはまったく私の思いですが、親鸞会会員の中には、どうも、「信心決定が目的であり、日常生活の中でも、信心決定一つに照準を合わせて、選択肢をえらんでいる」と思えない人が少なくなかったからです。

もし、信心決定一つが目的であれば、「どうすれば自分は信心決定できるのか」と、もっと話し合いや意見交換がなされる筈ですし、それを必死で求めて、得られなかった時の悔しさは、たとえば、親鸞会の法話会場で、最後に「恩徳讃」が唱和された後など、必ず出てくるものだと思うのです。

しかし、聴聞したあとの会員の多くは、足早に会場を離れ、「いかにして早く帰るか」といったことに心を奪われていると思わずにおれない人も、少なくありませんでした。

もちろん、私の接してきた会員の人の中には、毎日、信心決定できなくて悩んでいるような真摯な人もおられましたが、非常に少ないのでは、と感じました。

毎日、同じテープを聴聞し続ける支部長の人たち

それは、私の知っている講師部員(支部長)の何人かが、ビデオ御法話を聴聞しているときの目や態度にも表れていると、感じました。

私は講師部の皆さんの活動を、ただ感情的に「おかしい」とか、「間違っている」と否定するつもりはありません。私に一生懸命お話しくださり、私の仏縁を守るためにご苦労されているのは、他ならぬ、私自身が身近でよく接してきましたので、それはよく分かります。

ただ、これから言うことは、私が実際に、心で感じたことです。本当に素直な気持ちです。

支部長の人たちの中には、毎日のように同じテープを聴聞している人も少なくないのかもしれませんが、ビデオ御法話が始まってしばらくすると、そわそわしだしたり、眠気をこらえるために目をこすったり、目は開いていますが、あきらかに意識朦朧としている様子だったり…

そこには、「この一座でなんとしても信心決定を」という気持ちは、少なくとも私はあまり感じられず、ただ生活の為に、それらの任務をこなしているといったことを、大変、失礼で申し訳のないことですが、正直、感じる人がありました。

もちろん、人のことを言える立場ではありませんが、ここに述べていることは、私の心の中に出てきた正直な思いです。 

もし、私も親鸞会の職員であったり、結婚相手や家族が長年の親鸞会会員なら、生活の安定を求め、人間関係のしがらみから、親鸞会に対して、様々な疑問を抱きつつも、会員をやめていなかったのかもしれません。

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 1.なぜ私は、親鸞会に入会しようと思ったのか
 2.なぜ、すぐに親鸞会をやめなかったのか
 3.親鸞会の教義は、本当に大宇宙の真理か
 4.このまま聴聞を続けて信心決定できるのか
 5.なぜ、親鸞会に居続けるのか
 6.最後に

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