なぜ私は親鸞会をやめたのか

4.このまま聴聞を続けて信心決定できるのか

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私は幹部として、10年以上、親鸞会で聴聞し、活動を続けてきて、「このまま親鸞会で聴聞を続けても、本当に信心決定できるのだろうか?」と思うようになりました。

そう思うようになった理由は、以下のようなものです。 

高森先生の説法の質が落ちてきたと感じる

私のような者が高森先生の説法について、何かいえる立場でないことは十分承知しています。これから書くことは、あくまで、私の心に現れた単なる感情です。

しかし、それなりに長い間、思い続けてきた素直な気持ちです。

御法話もそうですが、特に教学講義でこのことを感じました。

教学講義では、はじめて参加する人もいるので、おおざっぱな把握でありますが、午前中は前回の復習で、午後の前半か、後半から、新たな展開で話しがなされる、といったことが多かったように感じます。(もちろん、聴聞の始まる前から、このような予測をたてて、聞いていた訳ではありません。あくまで、大雑把な主観的な思いです)

しかし、最近は、初めてきた人に対するような話しがほとんどで、そういった話の繰り返しです。初めて参加した人にとっては、分かりやすい話しなのかも知れませんが、正直、「うーん・・・」と感じてしまうような内容が、特に最近増えてきたのでは、と思うようになりました。

アシスタントの人の話は比較的少なく、高森先生自ら話しをされるのですが、「この間もまったく同じことを聞いたな・・・」という話しが、特に最近増えてきたのではと、正直感じてしまうことが多くなりました。

「この話しをこれからも未来永遠聞き続けるのか…」と考えると、心が暗くなってしまいました。

高森先生も高齢ですし、相当疲れておられると思います。説法の内容に対するその影響は、少なくないと思います。

このように言うと、「同じ話しを聞くのが仏法なのに、全然分かっていないヤツめ」と言われそうですが、もし、現会長が亡くなるときに遺言で、「これからは、私のこの話しだけを聴聞しなさい」と言われ、ビデオ御法話テープ1本を残されたら、どうしますか?

本部に参詣しても、地元の講演会に参詣しても、聞く話しはこればかり。

もちろん、蓮如上人いわく「いつも珍しく初めたるように」聞かせて頂くのが仏法であり、「珍しいことを聞きたがる」のが、間違った信心の特徴ですが、高森先生の説法の質が落ちてきたと感じている人は、私の周りにも少なくありませんでした。それらの人の声を聞き、「自分と同じようなことを、他の人も感じているんだなぁ」と思ったものでした。

聴聞のたびに、自分の心の中に「また、あの話か」という感情がこみ上げてきてしまいます。

もし、仮に上記のような遺言がのこされ、そのとおりになれば、会員数は激減すると、私は思います。

最近の高森先生の説法を聴聞していると、正直なところ、まさにこのような心境になりました。

周りの人たちが、あまり真剣に聴聞していない

前の方で聴聞している講師部の皆さんは、まばたきもせず、ど真剣に聴聞されているのかも知れませんが、少し後ろの方にいくと、あきらかに周りの人たちが真剣でないことが分かります。

フラフラしている人、眠そうな目を頑張ってあけている人、「また、この話しか…」と目で訴えている人、たいくつそうに首や肩を動かしまくる人、そわそわして聴聞に集中していない人、などなど。

あきらかにご縁の薄い学生だけがこんな感じなのか、と今までは思っていましたが、それなりに会員歴の長い人も、このような状態の人が特に最近少なくないです。

おそらくですが、それらの人は、私と同じようなことを感じて、聴聞に魅力を感じず、集中できないのだと思います。

顕正新聞に載るような、今をときめく、学院を目指したり、特専部にまもなく行くような幹部の学生たちも同じ状態だったのには、多少驚きましたが、おそらく心の中は同じようなことを考えているのでは、と思います。

とても信心決定しているとは、思えない

高森先生の説法の質の低下、周りの聴聞姿勢、そして自分の中の感情、これらの主観的観測から、「このまま聴聞をし続けても、とても信心決定できるとは思えない」というのが、今の正直な気持ちです。

私は自分なりに、10年以上、全力でひたすら親鸞会の活動に励んできました。

現会員の皆さんから見れば、「全然教えが分かっていない、もうちょっと教学を勉強したら?」と言われそうなことを書いていますが、それでも今までは、心の底から「親鸞会と運命を共にする」という気持ち一つで、進んできました。

しかし、もう限界です。これ以上は、私の気持ちがついてゆきません。

やはり、「親鸞会の教義」を「大宇宙の真理」だと思うのは、一つの「信仰」であり、「宗教的信念」です。私の場合は、その信仰心がなくなってしまった、ということに過ぎないのだと思います。

私は学生時代に勧誘され、当時、先輩とも相当、話しをしました。(少なくとも他の新入生以上には)しかし、それでも晴れない疑問が数多くありました。

結局、反証不能な疑問をかかえているままでは、埒があかないので、それらの疑問は一時棚上げにして、教義のうなづける部分を心の支えに、「親鸞会の教義こそ真実」と一生懸命信じて、教学の研鑽、顕正活動、後輩の育成、報連相の徹底、活動における企画立案、勉強との両立、家族問題の解決、など、朝から晩まで、親鸞会の活動に専念し、種まきに徹してきました。

しかし、それでも信心決定など、夢のまた夢でした。そして、最近は上記のような気持ちになりました。

幹部をつとめ、多くの講師部員の人たちとも接してきましたが、講師部の人たちの中で、 信心決定している人は、本当にいるのでしょうか。

「全員を調べた訳でもないのに、勝手なことを言うな」と言われるかもしれません。しかし、逆にそれだけ自信があり、「講師部員の中にも信心決定した人がいる」と思われ、それを示したい人がいるなら、講師部員全員に聞いてほしいと、切に願います。

私のような疑問を持っている人が、会員の中にも少なくないからです。

講師部の皆さんに、「あなたは信心決定していますか」「講師部員で信心決定した人がいたら教えてもらえませんか」と聞いてみて下さい。

一人ひとり聞くのが難しければ、布教局長か講師長にたずねて調べて頂けばいいでしょう。物理的には極めて簡単な作業です。また、本当に信心決定している人がいるならば、それこそ、できる筈です。

おそらく「講師部員で信心決定した人」は出てこないのではないか、と思います。

「誰が信心決定したか、していないかなど、個人の求道には関係のないことだ」と言われて、調べることさえ、許されないとも思いますが。

「その通りではないか」と言う人もいるでしょうが、親鸞会の中枢で、他の誰よりも「親鸞会と運命をともにする」という気持ちにあふれ、高森会長の御心を誰よりも多く、深く聞いてきた人たちの集団の中から、一人も信心決定する人があらわれないのは、本当に不思議でさえあります。

また、『法戦4』の中に、歎異抄研究会(親鸞会)と、仏教哲学研究会(創価学会)との法論が書かれています。

その中で、歎異抄研究会は、仏教哲学研究会にこのようなことを何度も述べて、返答をせまっています。

「釈迦の法華経にとかれている教説を、現今、如実に実践できる人がいるのか、いないのか。」

「釈尊と同じ境涯にいたった人が現在いるのか、いないのか。いたらその人の名を列記せよ、と 尋ねているのである。難しい質問ではないはずである。」

結局、仏教哲学研究会は、最後までこの質問に対して、遠まわしな言い方をして、直接答えようとしませんでした。

本当に親鸞会の会員で、そして講師部員の中で、信心決定している人はいるのか、いないのか。いたらその人の名を教えてほしいものですが、私は少なくとも、この10数年活動してきて、親鸞会の中で、信心決定した会員、講師部員を聞いたことがないように思います。

歎異抄研究会が再三、仏教哲学研究会にせまったように、「もし、いるなら、その名を列記してほしい」です。

このようなことを考えると、私は信心決定できる、とはとても思えないのです。

このような気持ちから、私はこれ以上、時間とお金をかけて、高森会長の下で聴聞する魅力や 必要性を感じなくなってしまいました。

おそらくですが、私のような気持ちになった人は、私一人ではないと思います。

なぜなら、会の中で、同じように幹部として活動している会員や、一般会員の人たちに、自分自身の気持ちを正直に打ち明けると、同じことを考えている人が、一人や二人ではなかったからです。

では、なぜそれらの人は、私と同じような気持ちになりながら、それでもなお、親鸞会に居続けるのだろうか、と考えました。

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 1.なぜ私は、親鸞会に入会しようと思ったのか
 2.なぜ、すぐに親鸞会をやめなかったのか
 3.親鸞会の教義は、本当に大宇宙の真理か
 4.このまま聴聞を続けて信心決定できるのか
 5.なぜ、親鸞会に居続けるのか
 6.最後に

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