なぜ私は親鸞会をやめたのか

3.親鸞会の教義は、本当に大宇宙の真理か

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こうして、私は10年以上もの間、親鸞会で幹部として活動してきたのですが、この10年以上の活動を支えてきたものは、私の場合は「親鸞会の教義」は「大宇宙の真理」であり、「自分だけが真実知らされた者」という優越感にも似た使命感であり、そして「親鸞会で聴聞を続ければ、死の不安を解決することが出来る」という教義の魅力でした。

しかし、それらの心の支えが、自分の中で次第に弱くなってゆきました。それについて、これから説明したいと思います。

「聞けば必ず納得できる論理的な教え」なのか?

私はすべての疑問が解消されて、「親鸞会の教義」こそ真実だと確信して、「親鸞会の教義」を選択した訳ではありません。先ほども述べたように、持っている疑問は『棚上げ』にして、活動に専念するようになりました。

一般的に、宗教といわれるものは、「経験的・合理的に理解し、制御することのできないような現象や存在に対し、究極的な意味と 価値を与えようとする信念・行動・制度の複合体系」(三省堂『辞林21』より)です。

私は理系的な頭を持っているからかも知れませんが、理性や論理性を重んじています。親鸞会に勧誘された時に、「論理的な話しだから、聞けば必ず納得できる」と言われて、そこに魅力を感じましたが、実際はそうではありませんでした。

いつまでたっても解消されない疑問がたくさんありました。しかし、なぜそれらを棚上げにして、活動に専念するようになったかと言うと、「親鸞会の教義」の中に、納得できる部分も、たくさんありましたし、また、「これだけ打ち込んでいる自分の努力が、むなしく終わっては困る」という心理が、かなり自分の選択に影響を与えていたと思われます。

しかし、あらためて感じることは、「親鸞会の教義」は「論理的な話しだから、聞けば必ず納得できる」というものではなく、信念により信じ込んでいる「宗教的信仰」である、ということです。

そして、このことを認められない親鸞会会員(特に学友部員)が少なくないと、私は思います。信教の自由が保障されている日本で、人がどんな信仰を持とうが、他人に対して、迷惑をかけなければ、それは自由だと思います。

しかし、一宗教団体の教義を、「これこそ大宇宙の真理」であり、「我々しか真実知らされた者はいない」という観念を持つことは、それがあまりにも強烈な場合、「他の意見や思考を受け入れられず、批判が許されない」という思考が構築されてしまいます。

それは、人とのつながりをもって社会の中で生きてゆく上で、また、一人間としても、極めて危険だと感じます。親鸞会(特に学友部)には、そのような危険があるのでは、と疑問に思っています。

だから、私は親鸞会会員の皆さん(特に学友部員)に、「自分は一宗教の教義を、宗教的信仰により信じている者」だというアイデンティティーを持ってもらいたいと思っています。私の知っている限り、そのような理解をもっている講師部の人や、支部会員の人は、もちろんおられます。

しかし、宗教に対する偏見を極めて強くもつと思われる若者に対して、「聞けば必ず納得できる論理的な教えだ」といって勧誘する学友部においては、私の言う、上記のようなアイデンティティーをもっている人は、比較的、少ないのではないか、とかつての自分も含めて、そのように感じます。

その結果、「我こそは大宇宙の真理を知らされた者」という正義感や、「自分は真実知らされた者であり、世間の人は、真実知らない人たち」という発想を持ち、相手を理解する心が弱くなり、家族関係などに問題が生じることもあります。 

親御さんに心配をかける学友部員が多々あり、また、ボランティア活動など、社会の動きに対する親鸞会の意識の低さも、そのあたりに現れてきているのではないか、と個人的に思います。

ボランティア活動で知らされたこと

私は学生時代に、ボランティア活動に行きたいと思いましたが、丁度、新入生勧誘の準備期間で親鸞会の活動が忙しい時期でした。先輩に相談すると、具体的に「行け」とも「行くな」とも言われませんでしたが、あきらかに私がボランティア活動に行くことには、消極的な人が多かったです。

結局、私は3泊4日で、ある災害の被災者の方々の支援をする活動に行きました。そこには全国から、多くの学生が集まっていました。私は、公園でテント生活をしているおばさんや、今にも崩れそうな、危険を示した「赤紙」の貼られた自宅に、いつまでも居座り続けるおじいさんなど、被災に苦しむ多くの人に出会いました。

今まで、「親鸞会の教義こそ真実」という価値観を持った人ばかりの中で生きてきた私にとって、これらの人たちと接して、いろいろ考えさせらることがありました。

親鸞会の学友部では、活動があまりにも忙しい為、それ以外のことに対する関心が低くなっているのだと思います。もちろん、それらのバランスを自分でうまく調整できる人はいいのですが、そのような人は、私のみた限り、あまり多くはいませんでした。

聴聞への参詣、部会への参加、勧誘活動、後輩の育成指導、教学の研鑽など、大変忙しく、正直、なかなか他のことが出来ず、精神的にも疲れてくると、他のことを考えたくなかった、というのが当時の正直な感想です。

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 1.なぜ私は、親鸞会に入会しようと思ったのか
 2.なぜ、すぐに親鸞会をやめなかったのか
 3.親鸞会の教義は、本当に大宇宙の真理か
 4.このまま聴聞を続けて信心決定できるのか
 5.なぜ、親鸞会に居続けるのか
 6.最後に

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