なぜ私は親鸞会をやめたのか

2.なぜ、すぐに親鸞会をやめなかったのか

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皆さんの中には、「おかしいと思ったら、すぐにやめればよかったじゃないか」と思われる人もいると思います。

私が様々な疑問を持ちながらも、なぜ、学生時代にすぐにやめなかったのか、いや、やめることが出来なかったのか。

そこには、やめるという選択肢を決断させない、様々な要素がありました。

多くの時間やお金をつぎ込んできたので、今更やめられない

私は大学入学手続きの日に声をかけられ、入学前の春休みには行事に参加しており、大学が始まってからは、ほぼ毎日、部会に参加していました。

当時行われていた、高森先生の全国各地での御法話にも、毎回、参詣していました。

平日は、放課後になると、部室へ向かい、部会に参加し、そのあとは、先輩の話しをきき、自宅に帰るのは、夜10時、11時、日によっては終電で帰り、12時を過ぎることもありました。

土曜日も、個人的な時間は過ごさず、部会や地区全体で行われる講演会に参加し、日曜日には、全国各地へ飛び回っていました。GWや夏休みも、ほぼ毎日部会に参加し、遠方で行われる合宿にも毎回参加していました。

趣味に打ち込んだり、親鸞会の活動以外のことで過ごす日は、ほとんどありませんでした。そして、これらの活動を続けるには、当然、相当の経費も必要で、アルバイトもかなりやりました。

体力的にもかなり厳しく、常に体はクタクタでした。

こうして、私は自分のもてる時間とお金と体力の大部分を、親鸞会の活動に費やしてきましたので、自分でも気づかないうちに、「これだけ、時間もお金も体力もつぎ込んでいるのだから、それが無意味に終わってしまったら困る」という思いがあったと思います。

「そんなことはあってほしくない」という思いから、親鸞会の教義や活動を、なんとか正当化しよう、という心理が自覚もないまま、常に働いていたと思います。

普通は、自分のやっていることに少しでも疑問を感じ、おかしな部分や悪い所がみつかると、それを正そうとするものですが、相当の労力を費やしている分、上記のような心理となり、自分のやっていることを正当化する心が働いて、多少、疑問をもったり、おかしいと思うようなことも、「まあ、いいか」と流してしまうことが少なくなかったと思います。

そして、「おかしい」と思うことは軽く流され、「正しい」「なるほどその通り」と思う部分のほうが、自分の心に中に、より強烈に残り、「やはり親鸞会の教義は正しく、自分のやっていることに間違いはなかった」と思うようになったものでした。

こうして私は、親鸞会の活動に時間やお金や体力をつぎ込めばつぎ込むほど、より強く「親鸞会こそ正しい」と思うようになっていきました。

「あいつは仏教を全然分かっていなかった」と言われたくなかった

幹部として活動するようになると、当然、大学のサークル内でも立場があがり、ま た先輩ということで、プライドも出てきます。

そんな中で、親鸞会をやめれば、「やはり、あいつは仏教を全然わかっていなかったのだ」と言われますが、そのように言われたくない、という気持ちがありました。

もともと、「親鸞会の教義」には、反証不能な部分が多く、「種まきの結果が、本当に返ってくるのかどうか分からない因果の道理」や、「三世」「必堕無間」「阿弥陀仏」といったことが、本当に大宇宙の真理かどうかは、どれだけ、議論しても答えは出ないのです。

だから、否定もできませんが、かといって、「これこそ大宇宙の真理」だなどということは、少なくとも言葉の上では、論理的に納得のゆくことはありませんでした。

そんな教義に対して、「あいつは分かっていないヤツだ」といわれたくはありませんでした。

そんな気持ちから、「親鸞会をやめる」という決断にブレーキがかかっていたように思います。

多くの素晴らしい先輩や友人がいて、彼らと別れたくはかった

大学に入学する前(入学手続き)から、親鸞会に声をかけられ、その後、昼休みや放課後はほぼ毎日親鸞会の活動に参加し、毎日会う人といえば、親鸞会のサークルの先輩や同輩たちだけでした。

大学に入って、最初に出会った親鸞会のサークルでは、新入生は先輩と接することがほとんどで、あまり新入生同士で話しをしたり、新入生同士だけで接する機会は少なかったように思います。

新入生同士をくっつけても、前向きな話しにはならないので、サークルの先輩たちは、「引き離し対策」といって、極力、新入生同士を近づけないようにしています。

私も先輩になり、幹部として活動するようになってからは、このようなことを積極的に行っていました。それが、後輩のためだと信じて、疑いませんでしたから・・・。

そのような環境にあって、大学に入学して、最初に出会った親鸞会のサークル内でしか、人間関係を築いてこなかった私にとって、大学に親鸞会の人たち以外の友人は、ほとんどおらず、親鸞会をやめることは、私にとって、大学で孤立することを意味していました。

人間的にはやさしい先輩や、気の合う同輩もたくさんいましたので、そのような中から、やめるというのは、よほどの覚悟がなければ出来ないことでした。

もちろん、親鸞会をやめても友人関係をたもてば、お互い接する機会はあるのでしょうが、私の知る限り、親鸞会をやめても、会員と接している未会員や、未会員と接している会員の人は、ほとんどいないようにも思います。活動が忙しく、自然に会員と未会員は縁が遠のいてしまうものでした。

こういった事情により、私はやめるということを、積極的に考えられなくなっていました。

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 1.なぜ私は、親鸞会に入会しようと思ったのか
 2.なぜ、すぐに親鸞会をやめなかったのか
 3.親鸞会の教義は、本当に大宇宙の真理か
 4.このまま聴聞を続けて信心決定できるのか
 5.なぜ、親鸞会に居続けるのか
 6.最後に

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