なぜ私は親鸞会をやめたのか

1.なぜ私は、親鸞会に入会しようと思ったのか

<< 前 | 1 2 3 4 5 6 | 次 >>

では「なぜ私は親鸞会をやめたのか」ですが、それを語るには、まず「なぜ私が親鸞会に入会したのか」を説明する必要があると思います。

親鸞会の教義を真実だと思った理由

私は今まで自分が生きるということについて、あまり深く考えたことがなく、敷かれたレールの上を歩んできました。それなりに勉強して、小学、中学、高校を出て、大学に合格しました。

しかし、今までの義務教育と違い(現在ではほとんどの人が進学する高校も義務教育のようなもの)大学という自由な世界に飛び込み、これから、どんな仕事をして、どんな人間関係を築き、どんな考えをもって、生きてゆけばいいのか、自分の中には、まったくその解答がありませんでした。

大学入学を前にして、私はこのような大きな不安に襲われました。

そこで、将来に対する不安を解消するために、もっと多くのことを勉強しなければならないと思っていました。そんな時に出会ったのが、親鸞会の学生組織のサークルです。

サークルの先輩に勧誘され、話を聞いてみると、それなりに納得のゆく話しで、今どき、こんな真面目は大学生もいるのか、と思いました。

また、サークルの先輩たちは、本当に優しく、親身になってくれる人ばかりで私にとって、居心地の大変いいところでした。そして、毎日のように部会に参加して、先輩の話をきいてゆきました。

しばらくして、人生の目的を果たすには、仏教を聞かなければならない、という話しになりました。

私は、仏教の教義の中で「諸行無常」、また「煩悩」「孤独な心」など、人間の内面を深く考察している部分に大変関心があり、もっと聞きたいと思いましたが、一方で、反証不能な因果の道理の真実性や、三世の存在、そして必堕無間地獄、阿頼耶識、阿弥陀仏について、どれだけ質問しても、納得できる答えが返ってこず、「仏教は大宇宙の真理を教えたもの」ということに対する疑問は、いつまでも晴れないままでした。

4月の頃は、「どんな質問にも答える」ということを売りにしていた先輩たちでしたが、だんだん、質問しても、あまり納得出来る解答も返ってこなくなり、因果の道理など、質問によっては「やれば分かる」といった答えしか返ってこず、また周りの人たちもあまり質問しなくなり、「これだけ聞いているのに、まだそんなことも分からないの?」という反応が返ってくるのが嫌で、私も次第に質問しなくなってゆきました。

一方で、逃れられない死の不安の解決をしたい、という気持ちから、サークルの活動に必死についてゆき、いつの間にか、同じ学年の中では、先頭を切って、突っ走っていました。

教義に対して、深く考察することがなくなって、「このサークルの先輩たちが言うこと、そして、高森顕徹先生の言われることに間違いがあるはずが無い」という思考が働いてゆきました。サークルで聞く「親鸞会の教義」を、無条件で受け入れるようになってゆきました。

それにはいろんな要因が考えられます。

・まず、一日のほとんどの時間を、親鸞会の教義を信じている人たちと接していること。

・自分がこれだけ、時間もお金も費やしていることが、間違いであっては困るという心理が働いたから。

・それらのことから、仏教こそ、真実であると思い込むようになり、お釈迦様、親鸞聖人のような、歴史的にも多くの人から認められている方々の言われることに、嘘があるはずがない、という権威付けが働いたから。

こうしてますます親鸞会の教義は真実である、と思うようになりました。

世間の価値観との対立に魅力を感じた

ほかにも、私が親鸞会にのめりこんでいった理由はいくつかあるように思います。

その一つが「親鸞会の教義」は、「世間の価値観と真っ向から対立」しており、そして、自分に自信を与えてくれるものであったということです。

今までどちらかと言うと、内向的だった私にとって、自信をもって人に話すことの出来る話題など、ありませんでした。そんな中、「親鸞会の教義」は大変魅力的でした。

世の中の価値観に対して批判のメスを入れ、世間の人の考えと、真っ向から対立する「親鸞会の教義」に私は強くひかれてゆきました。

親鸞会の破邪顕正の活動は、「自分だけが真実知らされている」との信念で、世間の価値観に真っ向から対立する活動ですから、私の中で、日に日に魅力的なものとなってゆきました。

当時はあまり自覚はありませんでしたが、はっきり言って、酔っていたと思います。

これらのことから、「親鸞会の教義」に対する疑問は、一時棚上げ状態となり、自分の納得のゆく、共感する部分だけを支えに、親鸞会の活動にのめりこんでゆくことになりました。

そして、聴聞、勤行、破邪顕正の活動、教学の研鑽、後輩の育成指導など、積極的に行うようになってゆき、自分のもてる時間とお金と体力、精神力の大部分を親鸞会の活動の為に費やすようになりました。

親鸞会での活動が、生活の柱であり、「親鸞会の教義」が私の思考の中心となってゆきました。完全に「親鸞会の教義」こそ、「真実」であり、「大宇宙の真理」と思い込んで、一所懸命、活動していました。

活動する中で、その都度、棚上げにしていた疑問が出てくることはありましたが、自分がやってきたことを正当化する心理が常に働き、深く分析する心はなく、今、活動をやめるか、このまま突き進むか、と選択する上では、それらの疑問が、活動をやめさせるほどの力を持ちませんでした。

いや、私にとって、親鸞会を選択すべきかどうか、本当に悩んだことが、1度ありました。

その時は、「まだ親鸞会にかける可能性は残っている」「疑問は棚上げのまま、親鸞会の教義を選択して正しいのかどうか、自分の人生を実験台にしよう」と思いました。

その時の思考については、今でも、いつ、どこでそう思ったのか、ハッキリと覚えています。

そうして、私は親鸞会の幹部として、10年以上、活動に専念してきました。

なぜ私は親鸞会をやめたのか   <<前  次>>

 1.なぜ私は、親鸞会に入会しようと思ったのか
 2.なぜ、すぐに親鸞会をやめなかったのか
 3.親鸞会の教義は、本当に大宇宙の真理か
 4.このまま聴聞を続けて信心決定できるのか
 5.なぜ、親鸞会に居続けるのか
 6.最後に

なぜ私は親鸞会をやめたのか|ホーム