高森顕徹氏と親鸞会の問題

4.高森顕徹会長への礼賛

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絶対無二の大指導者

・こんな時こそ、この世はもちろん、未来永遠私達を大勝利に導くべき、大指導者が必要ではありませんか。真実弥陀の本願を声を限りに叫んで下さる我が会長、高森先生こそ、人生の戦法をあきらかに教えて下されている絶対無二の大指導者でございます。

・ここに始めて高森顕徹会長先生の説法を聞かされた私は、あの真剣な血の滲むような説法と、その御姿は絶対の慈愛にあふれ、あれ程までに私達を暖かく、慈しまれる御心に、私の心は激しい感動におそわれずにはいられませんでした。

・こういう高森先生のお姿に、ある者は七百年昔の親鸞聖人を偲び「昭和の親鸞聖人」と驚嘆するのであり、ある者は限りなき信頼感が沸き出でて「絶対の善知識」と仰ぐのであり、求めても求めても無碍の大道まで導く僧侶に一人もめぐり遇えず、真の善知識を求めてやまなかった者には「無二の善知識」「全世界唯一の名匠、善知識高森顕徹会長先生」と欽慕せずにおれないのである。

・今まで周囲の方が善知識高森先生高森先生と仰言るので私も心十分もないのに善知識高森先生と簡単に云っていた気がするのです。先生、でも今は違います。絶対無二の弥陀の真実の暖かい慈悲一杯の善知識高森先生と判りました。

・「高森先生こそ親鸞聖人のお生まれがわりだ。浄土真宗の要の中の要こそ高森先生に聞かねば判らぬぞ、何が何でも明るい世界まで出させて頂くのだ、永遠の親を求めよ」と力強く聞けよ聞けよと勧めてくれたのです。

・それにしても、お釈迦さま、そして親鸞聖人のみ教えと、寸分の違いもなく、ご説法下さる高森先生、どうしてこんなすばらしい先生にめぐり遇えたのかと、本当に不思議でなりません。

・高森先生は、無上仏のお力の偉大さを、全身全霊で讃嘆しておられます。まるで大宇宙に立っておられるようで、ただ善知識の仰せにひれ伏し、無上仏が尊く思われてなりません。

・浄土真宗滅亡寸前の時に立ち上がってくださった高森先生の大偉業は、永劫に輝きを残すことと信じます。真宗の夜明けはもう始まっています。この時に間に合った私は何と幸せ者でしょうか。

【以上、顕正新聞 昭和42年〜平成15年】

高森先生はまさに、大悲仏智そのままに、時には大教育者であられ、また、『なぜ生きる』や、種々のご著書の大哲学者・大文学者であられます。大いなる感動で、賛仰申し上げずにおれないのです。広大なご恩徳に報いられない懈怠の愚かさを懺悔申し上げ、高森先生こそ、まさに親鸞聖人であり、阿弥陀さまであらせられますと、日々尊く拝しながら、ただただ、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏ばかりでございます。

【顕真 平成16年7月】

親鸞会の機関誌から抜き出した高森顕徹会長への礼賛記事のほんのごく一部です。親鸞会にいた人ならみな知っていることですが、親鸞会の出版物は高森顕徹会長への賛美に溢れ、会合でも常に高森顕徹会長への信順が誓われます。高森顕徹会長へ寄せられた手紙を掲載する「法友通信」では誰しもが高森顕徹会長への尊敬を表し、弁論大会では常に「高森先生のご苦労」が語られます。

以下は元会員の言葉です。

高森先生が地元に御法話に来るときは、それはもう大変でした。何ヶ月も前から、何百万という御報謝を集めるのに必死でした。代表施主といって、30万円位の御報謝をした人は高森先生と握手できることになっていました。そういった人も募らなければなりませんでした。講師の方と一緒に、会場や職員のホテルを確保し、ビラをまき、お誘いをし、それこそ仕事や家族を犠牲にして、必死で頑張ったものです。

ところが、そうして準備しても、御法話の2日前位になって突然「先生はお疲れのためお休み」となってしまうのです。御法話はビデオ上映。もちろん、出した御報謝の返金などありません(別に返金して貰いたいと思ったわけではありませんが、あのお金はどこに消えたのでしょう…)。そんなことがしょっちゅうありました。

一番辛かったのが、半年くらい富山の御法話以外、先生が殆ど休んでいたときです。どうせ地元の御法話も中止になるだろうと思いましたが、それでもいつもの通り必死に御報謝を集めました。みんな先生はどうせ来ないと思っていましたから、何度も何度も支部の幹部で会合しても、なかなか御報謝は集まりませんでした。そして、案の定3日前に「先生はお疲れでお休み」と連絡が入りました。

なんでもっと早く知らせてくれないのかと思いました。担当の講師からは、ビデオといっても先生が来られるのと一緒だから、そのつもりで臨むようにと話がありました。

普通の責任ある社会人ならまずあり得ないような身勝手なことをされても、当時は「先生は私たちのことを思ってご無理をされて、お体をこわされたんだ。ギリギリまで悩んでおられるからいつも直前のキャンセルになるんだ」と思っていました。

いや、思わなければとてもやってゆけなかったのです。

【元幹部会員の証言より】

高森先生は講義の間中長いこと椅子に座ったままで、アシスタントの講師に色々話をさせるのですが、些細としか思えない言い回しに「違う、違う」を連呼するばかりで午前中の2時間が終わることもあり、明らかに機嫌が悪いように見えることも少なくなく、アシスタントが可哀想に思えたこともよくありました。(私が些細と思っているだけで、実は大事な所なんだとその時は思っていましたが、いま思うとそう思いこまされていたのかな…とも思います)

講義の内容はひと月前の講義と殆ど一緒。同じところからちっとも進まず、先輩は「深い教えだから何度お話ししても足りないんだよ」とか「真実は何度聞いてもわかるものではないから」言っていましたので自分もそう思いこんでいましたが、まわりには明らかに、もううんざり、といった空気が漂っていました。それでも、聞法は苦しいものだし、同じ事を何度も聞くのが聴聞なんだと教えられていましたので、それなりに自分を納得させていました。

驚いたのは、教学講義で高森先生が「観無量寿経が釈尊の出世本懐経だ」と言われたことでした。今まで聞いたこともないことでしたので、驚いてノートに付けましたが、次の教学講義では「そんなことは言うはずがない、私は言わなかった」ということになってしまい、まわりのアシスタントの人も、確かに先生は仰らなかった、といって終わってしまいました。そしてその後、「真剣な聞法のために」という理由で、教学講義のビデオ録画は中止になってしまいました。

親鸞会では高森先生は絶対に正しい人であり、それに異論を挟めるような雰囲気ではありませんでした。上の人ほど高森先生の一挙一動に心酔し、何か疑問に思うことがあっても、「先生の深い御心だから」ですませてしまう。

みんな「どうしたら先生の御心にかなうか」とか「何としても先生のご恩にお応えしなければ」「こんな目標も達成できないようでは高森先生に申し訳ない」って。そんなことばかり思ってるし、口にしている。

高森先生は親鸞聖人のお生まれ代わりと言われていましたが、親鸞聖人ってこんな方だったんでしょうか…

【元学生会員からのメール】

私は決して、ある特定の人物を賛美するのが悪いと言っているのではありません。ただこうした讃辞の嵐の中で、一個人を絶対視するのは危険ではないかと危惧しているのです。

人は自分が確信を持てないとき、あるいは状況が曖昧なとき、他の人々の行動に注意を向け、それを正しいものとして受け入れやすい。赤信号だったが、みんな平気で渡っていたので自分もそうした。ある町の小さな事件が全国に及ぶ暴動に発展する。これらは追認性にしたがった行動といえる。

カルトの勧誘者にとって、この原理の応用は簡単である。たとえば、教祖の説法会に参加させたとしよう。教祖の話を聞いてもよくわからない。ところが、まわりの人はみんな感動して説法に聞き入っている。悦びに満ちた顔をしている。そこで、「あの方は、きっとすばらしいことを言っているのだ」と思ってしまう。

【オウム真理教信徒救済ネットワーク編著 マインドコントロールからの解放】

本当の浄土真宗の教えに個人崇拝はないことを、蓮如上人は、こう仰っています。

されば善知識といふは、阿弥陀仏に帰命せよといへるつかひなり。宿善開発して善知識にあはずは、往生はかなふべからざるなり。しかれども帰するところの弥陀をすてて、ただ善知識ばかりを本とすべきこと、おほきなるあやまりなりとこころうべきものなり。

【蓮如上人 御文章2帖目第11通】

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 1.親鸞会の集金システム
 2.法もまた財なり、財もまた法である
 3.高森顕徹会長と絶対無条件服従
 4.高森顕徹会長への礼賛
 5.なぜ隠すのか

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