高森顕徹氏と親鸞会の問題

3.高森顕徹会長と絶対無条件服従

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高森顕徹会長について

親鸞会を知るには、まず会長の高森顕徹会長のことを知らなければなりません。高森顕徹氏は浄土真宗親鸞会の創始者であり、現在の会長です。その生い立ちは次のように説明されています。

彼は1929(昭和4)年、氷見庄の「安心惑乱」の舞台となった富山県氷見市の本願寺派寺院に生まれた。45年の敗戦の年に、彼は16歳で特攻隊に志願し、戦後復員してきた。復員後まもなく、彼は龍谷大学の専門部に進み、翌年、18歳のときに信心決定したといわれる。

龍谷大学の専門部から仏教学部に転じた彼は、1951年、卒業とともに、在学中からの布教活動を強化し、翌52年、早くも68名の会員を集めて「徹信会」を発足させた。親鸞会の前身である。そのころの高森師は、よく「死線を越えて」という腕章をつけて、辻説法に立っていたという。

やがて、活動の拠点はしだいに富山県西部の中心都市高岡市に移り、1957年、同市前田町に布教のセンターともいうべき徹信会館(後の親鸞会館)が建設された。翌年、会は宗教法人となり、会名も浄土真宗親鸞会と改まる。この間、彼は、1947年に得度して僧侶の資格を得ているが、70年には本願寺派の僧籍を離脱している。

【小沢浩著 新宗教の風土より抜粋】

私が親鸞会にいたときは、高森顕徹氏は「無二の善知識(正しい仏法の先生)」であり、高森顕徹会長以外には親鸞聖人の教えを正しく伝える人はいないと、言われていました。

それは、「信心決定(阿弥陀仏に救われること)」という体験と、「正しい教学」を備えた人でなければ、真の「善知識」とは言えない。その2つを兼ね備えた人が高森顕徹会長であり、高森顕徹会長が唯一の善知識とされていました。そして、「善知識は助かる為の全因縁なり」と言われ、善知識に従わずしては後生の一大事(全ての人は死ねば無間地獄に堕ちるということ)の解決は出来ない、と言われていたのです。

絶対無条件服従

釈尊は「善知識はさとりを得る道の大因縁、全因縁なり」と仰言っておられる。又、「善知識があったら十里、二十里はおろか海山越えても馳せ参じ、その善知識を仏の如く敬うて、身肉手足をも供養すべきである」とも般舟三昧経に教えておられるとおり、私達が助かる否かは全く善知識の御化導によるしかない。その御化導に私見をはさんでいては万劫聞いても助からない。ただひたすら、善知識を弥陀の化身と仰ぎ、善知識のお言葉を弥陀の直説と頂いていく事にのみ、私達が無碍の大道に雄飛できる道のある事を再自覚し、会長先生の御下にぬかずかねばならない。

【顕正新聞 昭和49年12月】

親鸞会で際だっていたのは、善知識への絶対無条件服従でした。高森顕徹会長をもって無二の善知識としている親鸞会では、それはそのまま高森顕徹会長への絶対無条件服従を意味することになります。

では、なぜ無条件服従しなければならないのでしょうか。少し長いですが、引用します。

親鸞会の我々には今、二つの目的がある。一つには自身の信心決定であり、二つには真宗の流れを変えることの二つである。いずれも世間のどんな難事業よりも至難な大事業であり、どれだけ心身を砕いて精進してもし足りないが、二大目的の達成は、善知識に無条件服従できるか否かにかかっているといえよう。

このことは歴代の善知識が明らかにしておられることだが、事実我々はどうであろうか。

自己の理性を基に正邪を判断し、愛憎違順する我々に、無条件服従は極めて難しい事である。理性が満足せねば、善知識の仰せに対し、本会の種々の指示に対し、「なぜですか」「どうしてですか」「納得できないからやれません」等々疑い、不信、反抗の鎌首をところかまわずもちあげる始末、それでもまだ足りず、自らの怠惰な求道を棚に上げ、「もう少し早く進める方法はないか」と善知識の御指導に不平を漏らし、法謗の徒と化す根性。この心こそが曠劫流転の親玉であり、正しい判断できると自惚れている心が仏心を受けつけぬ元凶であることを知らねばならない。

仏法に対しては全く狂った考えしかないから無条件服従が必要なのであり、善知識は信心決定への全因縁といわれる理由があるのである。

蓮如上人が親鸞聖人のことをある人に尋ねられた時、「我も知らぬことなり。何事も何事も知らぬことも開山のめされ候ように御沙汰候」と仰せになっている。これは「私も判らぬ、しかし何事も何事も親鸞聖人のなされたようにするのがよろしい」という意味で蓮如上人の親鸞聖人に対する無条件服従の姿勢を明らかになされたものである。

我々も又、善知識の仰せに対し本会の指示に対し、何事も何事も仰せのままに指示通りに無条件で服従するように努めていかねばならない。これが求道であり、この過程があってこそ、親鸞聖人の「よき人の仰せをこうむりて信ずるほかに別の仔細なきなり」という真の無条件服従が体験できるのである。

この絶対の体験をするまで、聴聞によって無条件服従の心を培い、本会の指示に無条件に従うことによってその形を整え、心身ともに無条件服従へ仕向けていく努力が自己の信心決定を早め、強固な組織作りとなり、真宗の流れをより早く可能たらしめるのである。

【顕正新聞 昭和54年8月】

赤尾の道宗が蓮如上人から、
「近江の湖を一人で埋めよ」と言われたとき、
「はい畏まりたる」と無条件服従している。
この人の言うこと、どこまで本当だろうか、と思っていては仏法を聞き開くことはできない。
「近江の湖を一人で埋めよ」と言われたら、「はい」と答える心構えが信前信後を通じて尊いのだ。

【顕正新聞 平成4年9月】

つまり親鸞聖人が「よき人(法然上人)の仰せをこうむりて信ずるほかない」と仰り、蓮如上人が「何事も何事も知らぬことも開山(親鸞聖人)のされたようにするのがよろしい」と仰ったのが、無条件服従の根拠だと言われるのです。

しかし本当に、高森顕徹会長への「無条件服従」は、親鸞聖人の御心にかなったものだったのでしょうか。以下は親鸞会の顕真学院生と講師部員が、1日2回唱和している「聖則」の文章です。

会長先生のご指示に無条件で従い、信心獲得を本と致します。
上司の指示は会長先生の命と心得ます。

【親鸞会 顕真学院・講師部聖則より】

確かに親鸞聖人は法然上人に従われ、蓮如上人は親鸞聖人のされたことに従われました。しかし、蓮如上人が、「親鸞聖人は法然上人に従われたのだから、私にも無条件で従え」と仰るようなことが果たしてあったのでしょうか。そしてそんなことを毎日唱和させるようなことを、果たしてされたのでしょうか。

それだけではありません。一般会員にも下記の粛正規定を徹底しています。

会員粛清規定第3条(2)組織破壊行為

    (1) 支部長の指示に従わない。
    (2) 講師部を批判する。
     (3) 本会の機密を漏洩する。
    (4) 本会の和を乱す。
    (5) 本会の指示に対する批判的言動。
      (本会の指示、方針、通達、活動目標等を批判する)

【親鸞会 会員粛正規定】

「唯一絶対の真実を説く団体」なのに、粛正規定まで作って会の批判を封じる必要がどうしてあるのでしょうか。

蓮如上人は教えておられます。

順誓申されしと云々。常にはわがまへにてはいはずして、後言いふとて腹立することなり。われはさやうには存ぜず候ふ。わがまへにて申しにくくは、かげにてなりともわがわろきことを申されよ、聞きて心中をなほすべきよし申され候ふ。

【蓮如上人 御一代記聞書】

蓮如上人は「世間の人は、自分の前では何も言わずに、陰で悪口をいうといって腹をたてるものである。だが、わたしはそうは思わない。面と向かっていいにくいのであれば、わたしのいないところでもよいから、わたしの悪いところをいってもらいたい。それを伝え聞いて、その悪いところを直したいのである」といわれているのです。

また、蓮如上人はこうも仰います。

故聖人の仰せには、「親鸞は弟子一人ももたず」とこそ仰せられ候ひつれ。「そのゆゑは、如来の教法を十方衆生に説ききかしむるときは、ただ如来の御代官を申しつるばかりなり。

さらに親鸞めづらしき法をもひろめず、如来の教法をわれも信じ、ひとにもをしへきかしむるばかりなり。そのほかは、なにををしへて弟子といはんぞ」と仰せられつるなり。さればとも同行なるべきものなり。これによりて、聖人は「御同朋・御同行」とこそ、かしづきて仰せられけり。

【蓮如上人 御文章1帖目第1通】

「弟子一人ももたず」と仰った親鸞聖人が自らに無条件服従を徹底されたとは、私は聞いたことがありません。

もちろん、親鸞聖人を慕う人々が自ら付き従った事は間違いないでしょうが、機関誌で幾度も無条件服従を徹底し、定訓を作って1日2回自分への忠誠を誓わせ、粛正規定を作ってまで批判を封じることを親鸞聖人や蓮如上人がされたとは、私にはとても思えないのです。

カルト信者の特徴は、教団の教えは絶対に正しく、それに疑いをもつことは間違いであり、悪だと考えることである。教義に疑問を抱いても、それは自分の不完全さを証明するものでしかなく、不完全さを補うには、いっそう教義に忠実であらねばならないという逆の機制が心にはたらく。何かの事情で教義が変わってもこの機制は変わらない。教団の教えは常に正しく完全であり、不完全で間違っているのはいつも自分の考えや感じ方のほうなのだと見なすのである。教義と自分のこの関係は、理想と現実を比べ、現実は間違い≠ナあるとするある種のユートピア思想と似ている。

【オウム真理教信徒救済ネットワーク編著 マインドコントロールからの解放】

指示が出たらみんなでさっと動くとか、そういうのってあるじゃないですか。こういうの楽だなあって思いました。自分で何も考えなくていいわけですからね。言われたことをそのままやっていればいい。自分の人生がどうのこうのなんて、いちいち考える必要がないんです。

(出家をする動機として)自分でものを考えなくていい。決断しなくていいというのはやはり大きかった。任せとけばいいんだぁって。指示があって、その指示通りに動けばいいんです。そしてその指示は解脱をしているという麻原さんから出ているわけですから、すべてはきちんと考えられているんです。 

【村上春樹著 約束された場所で】

私は親鸞会がカルトだとは言っていません。オウムと同じだとも思いません。ただ、この一点を見て比べた場合、どうしてここまで似てしまうのだろうかと、疑念を感じずにはおれないのです。

親鸞会の何が問題か   <<前  次>>

 1.親鸞会の集金システム
 2.法もまた財なり、財もまた法である
 3.高森顕徹会長と絶対無条件服従
 4.高森顕徹会長への礼賛
 5.なぜ隠すのか

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