高森顕徹氏と親鸞会の問題

2.法もまた財なり、財もまた法である

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正本堂建立御報謝

ほかに正本堂建立御報謝、と言うのもあります。正本堂とは、平成17年11月に完成した1万人収容の大講堂のことで、120億円程度(公表されていない)の費用がかかっていると言われています。

これだけの巨額なお金を、僅か1万人程度の会員で集めようとしたのですから、その過酷さは想像に余りあるでしょう。

正本堂の募財は平成9年から始まりましたが、ある北陸の会員は、「御報謝額が足りない、何度も募り直しがあり、その度に幹部が顕正室に集まって何時間も財施の意義を聞かされた。御報謝の予約用紙を書き換えるまで返してもらえない雰囲気だった。」と証言しています。

しかしこのあとしばらくは正本堂の着工は始まらず、会の財政が厳しいと言うことで、暗に「正本堂御報謝の納入を先送りにしてその分を会費の増額にまわすように」という指導が行われています。(その時幹部会合などではよく「親鸞会あっての正本堂ですから」と言われていました。)

その後、平成14年に正本堂の着工が始まると、再び正本堂御報謝の募り直しが始まり、平成17年の完成後も費用が足りないとしてさらなる財施の募り直しが行われています。

その他にも、月に2〜3回しか使わない、駐車場と大講堂を結ぶ地下道(20億円以上)、金ピカの鷲のマーク(3億円?)、仏壇・仏間(不明)、大型映像装置(不明)といった募財が次々と行われ、建立後も、壁画を書くといっては一口10万円の御報謝が募られたり、85万円の座布団の募財など、次から次へと休みなく募財が行われています。

その中、ロビーに大きな有名な画家に書かせた松林の絵を掲げたり、多額の費用をかけて地下道の出口を削り、ベルサイユ宮殿風の柵と天女のレリーフを付けたり、などの作業も行われてきました。

正本堂に募財した人は銘板に名前が書き記され、その納入額に応じて名前の大きさも変えられています。

親鸞聖人が泣いておられます

親鸞会はどんなに教えを説いても、相手が自発的に財施をされない限り、一円の請求もできませんし、してはなりません。(中略)その親鸞聖人の教えを伝える親鸞会は、物も金も如来聖人からお預かりしたものですから、一人でも多くの人に親鸞聖人の教えをお伝えするためにのみ、使わせていただいているのです。

【顕真 平成15年6月】

財施はお金や物を、人に施すことです。大切なのは、量の大小ではなく、心であると教えられています。

【とどろき 平成17年3月】

私は決して財施が悪いと言っているのではありません。話を聞くのに講堂が必要なのは言うまでもないことです。人件費も必要です。宗教者は霞を食べて生活しているわけではありません。

しかし、自分自身が親鸞会の募財に密接に関わった身として、親鸞会の募財活動が「相手の自発的な財施」に限られていたのかどうか、極めて疑問に思います。

支部長、副支部長、地区長などの幹部約十数名が、顕正室にあつまり、目標に満たない額をどう募ってゆくか、という話しになりました。

目の前に、それぞれどの地区で、誰がいくら納入しているのか、が書かれた名簿を置いて、みな腕組みをして悩んでいます。

結局、お金を出すのは、その場にいる人以外にありません。

支部長が「○○副支部長、あなたの地区はあとどれくらいできますか…」と、支部長も言いづらそうにされながら、副支部長に聞かれ、副支部長は「う〜ん…」と腕を組んだまま、黙ってしまいます。

そのようなやり取りを、何度も何度もして、時間は夜11時、12時となってゆきました。

そして、「もう自分たちが言うしかない。そうしないと帰れない」というような異様な雰囲気になってゆき、支部長が「私があと○○万円頑張ります」と言い、しばらくして、副支部長が「じゃあ、私はあと○万円やります」となります。

何人かの人が、自分の予約額を追加してゆきました。それでもあと数万〜10万程、目標に満たないので、沈黙が続く中、「分かりました!私がやります!!」と最後支部長が言って、目標を上回り、ようやく全員が帰れる、と言った感じでした。

時間は夜1時過ぎでした。

形は「自主的なもの」ですが、こんな財施が本来の財施なのか、と正直、憤りを感じました。

【元幹部会員からのメール】

この体験は決して特殊な物ではなく、全く同じ経験を私も幾度もしています。

また、大講堂に数億の金ぴかのマークを付けて威容を誇ったり、高価な絵や装飾品で飾り立て、自分の著書を皮の装幀を施し配布して、その度に会員に高額な募財を募る様なやり方が、果たして「親鸞聖人の教えをお伝えするためにのみ」の募財と言えるのでしょうか。

そして、お金を出した人がより前で聞け、ほぼ財施額によって決まる番号のついた名札の着用を義務づけるようなシステムは、果たして「大切なのは、量の大小ではなく、心である」と言えるのでしょうか。

私は会内にいたときに、「言っていることと、やっていることが違いすぎないか」と幾度となく言われました。当時は財施の心構えを分かっていない人だと思いましたが、いまはそう思われても仕方のない部分が、親鸞会には沢山あると思っています。

こんなことでは後生の解決どころか、この世の事すら解決出来ないではないか、情けない。それどころか又、会費があがったとか、又お金を集めるとか、思ってはならぬ心がムクムクと出て来ます。財施をすれば凡て自分の宿善になるのだと知りながら悲しい心が出て来ます。

【顕正新聞 昭和44年5月】

思えば我々親鸞会々員が今日こうして生まれ難き人間界に生を受け、聞き難き仏法を聞かせて頂いているのも阿弥陀仏、そして高森顕徹会長先生ましませばこそである。いわば世界中で最高の洪恩を蒙っている幸せ者である。ところが我々は、受けた恩徳は無量であるのに返す財施は限りあるどころか雀の涙ほども出来ない横着者であるこれでは助かりようがない。

【同紙 昭和45年5月】

どうせくだらんところにしか使わない金だ。それらの金銭を真実の仏法を弘める為に布施をさせるのが仏法の重さを知らされた者の責任ではないか。酔生夢死の人生を過ごそうとしている人々に尊い仏縁を与える為に金の使い方を教えてあげる、これが真の仏法者の務めである。何不自由もない釈尊が一生涯托鉢乞食行をなされた精神は、くだらんところへ散在する金品を吸い上げ、召し上げて彼らに仏縁を結ばせる為ではなかったか。(中略)親鸞会に布施せられた財施のみが十方衆生を生かし末代の宝として生きかえるであろう。

【同紙 昭和53年10月】

「もういい加減な求道はできません。何としても今生で信心決定するため、新本部財施に命をかけます」

【同紙 昭和61年6月】

財施をするのは損をするということではなく、自分が徳をすることです。家や田んぼを売っても損はしないのです。計算して財施するというのは嫌々ながらやることです。そうではなく、喜んでお金を出す。それが喜捨なのです。家を売っても、アパートで生活すればいいのです。喜捨をしないのは親鸞学徒ではありません。(本部報恩講での高森顕徹会長の説法)

【米本和広著 教祖逮捕 p165】

金のある者には、大法の為にどんどん使うように勧めたらよい。
自損損他のアブクゼニを、大法の為に活かすよう仕向けるのは、大慈大悲である。
この精神を恥ずかしく思うのは、仏法の尊さがまだ分かっていないのだ。
法もまた財なり、財もまた法である。(巻頭言・高森顕徹会長の言葉として)

【顕真 平成15年9月】

親鸞会に在籍していたとき、活動の中心は募財であり、いつも何かの御報謝を集めるのに必死でした。沢山お金を出せば「○○さんは仏縁深い」と褒められ、会費を減額したいと申し出るとその理由を何度も聞かれました。学生時代は「無駄遣いをしないように」と金銭出納帳の提出を求められました。

さらに、かつてはチューリップ企画から親鸞聖人のアニメが出るたびに「アニメ製作御報謝」、今は1万年堂出版から、高森顕徹会長の著書が出るたびに「出版記念御報謝」が募られました。

当時「出版記念御報謝」は、「高森先生の御著書の宣伝費として使われる」というふれこみで、10万円以上の御報謝には「高森先生のお歌入りの本が頂ける」となっていました。事実ならば、1万年堂出版という会社の宣伝費が会員の浄財でまかなわれていた訳です。

また、会内には「遺弟会」といって、特に仏縁が深いと言われる若者が認定される集まりがありますが、一定額以上の財施をしていないと選考対象にすらなりません。

月に一回教学講義という高森顕徹会長自らの講義が行われているのですが、これも一定額以上の財施か、もしくは規定の活動日数をこなした会員でないと受講資格は与えられません。

親鸞聖人の著作に、直接に財施を勧められた文章はありません。また、財施と救いを結びつけられたような文章もありません。もちろんだからといって、親鸞聖人が財施をすすめられなかったと言っているのではありません。しかし親鸞聖人が、家を売ってもアパートで生活すればいい、などと果たして仰ったのでしょうか。

またそうした事を会の機関誌に書いたり、説法で話したり、席順や受講資格を財施の多寡によって決めたり、仏縁の深さを財施額ではかるようなやり方をしてまでお金を集める親鸞会を、もし親鸞聖人が知られたらなんと言われるでしょうか。

私は会にいたときは「集め方が問題なのではない。お金では幸せになれないし、真実の仏法の為なのだから」と必死で疑問を押し殺していました。しかしそれは今になって思えば、自分の信仰が崩れるのを怖れて、考えたくないものに蓋をしていたのかも知れません。

蓮如上人はこう言われています。

仏法のかたに、施入物の多少にしたがつて、大小仏になるべしいふこと。この条、不可説なり、不可説なり。比興のことなり。

【歎異抄 第18章】

これについてちかごろは、この方の念仏者の坊主達、仏法の次第もってのほか相違す。そのゆえは、門徒のかたよりものをとるをよき弟子といい、これを信心のひとといえり。これおおきなるあやまりなり。

【蓮如上人 御文章 1帖目11通】

信心のとおりおば手がけもせずして、ただすすめといふて銭貨を、つなぐをもて一宗の本意とおもひ、これをして往生浄土のためとばかりおもへり。これおほきにあやまりなり。

【蓮如上人 帖外御文章】

親鸞会が本当に親鸞聖人・蓮如上人の教えに即したところなのか、今一度考えてみる必要があると思うのです。

親鸞会の何が問題か   <<前  次>>

 1.親鸞会の集金システム
 2.法もまた財なり、財もまた法である
 3.高森顕徹会長と絶対無条件服従
 4.高森顕徹会長への礼賛
 5.なぜ隠すのか

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