なぜ私は親鸞会をやめたのか|マインドコントロール

自己否定と無条件服従

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被暗示性の高揚

被勧誘者は、熱気のこもった集団の雰囲気に影響されて、理性的判断よりも感覚的判断に従ってしまうことがある。私の調査研究では、破壊的カルトの主催する合宿セミナーに参加した人々の中に、感動した人や興奮した人が多くいたことが明らかになっている。

(『マインドコントロールとは何か』P169,170)

新入生が初めて参加するゴールデンウィークの「新勧合宿」や、夏休みに行なわれる「夏合宿」では、特に(他の合宿もそうかもしれませんが)参加した人たちの中に、感動したり、興奮した人は多いように思います。新入生が一番最初に参加する、春の新勧合宿では、合宿の最後に新入生の中でも特に前向きな新入生を講師部員が選んで、みんなの前で、「親鸞会のサークルに出会えた喜び」を語る場が設けられていました。中には、本当に感情が高ぶって、感動のあまり涙を流すような新入生もあったと思います。

逆に、合宿が終わって地元に戻り、普段の生活が始まると、合宿での感動や興奮が薄れるように思います。ですから、合宿中、感情的に興奮した状態にある時に決意した「親鸞会への入会」や「高森会長の法話への参詣」といったことについて、合宿後に「なぜ、あんな決意をしたのだろう」と思う人もいるようです。感情が高ぶり、様々な周囲の影響を受けていた結果、このようなことが起きるのでしょう。

毎日の部会や、土日に多くの学生が集まる行事などで、それなりに立場のある人が話しをする場合でも、部会の中で大きな声を出して、怒号することがあります。ある講師が「親鸞会ではマインドコントロールが行なわれているのでは」という批判について話す中で、「親鸞会がマインドコントロールを行なっているなど、ふざけるな!!」「全然、仏法が分かっていない者たちが、いっているだけだ!!」「あんな言葉を聞いて信仰がぐらつくようでは、幼稚な信仰だったということだ!!」「一体、今まで何を聞いてきたのだ!!」と叫んだりします。

それを聞いた学生は、感情が高ぶり、興奮したりして、親鸞会の正当性を感じるのかもしれません。感動や興奮といった生理的な現象を相手に起こさせることによって、自分の意見を受け入れさせるといった手法が用いられているようです。

私は絶叫した講師部員が、部会の後、「あれくらい激しく言わないと、分からんだろう」と言っていたのを何度も聞いています。これを聞いて私は、「聞いている学生の感情を揺さぶって、納得させよとされたのだな。もう少し、筋道立てて、相手に分かるように話す方法はないものだろうか・・・。」と考えさせられました。

これらの、話しを聞いている学生たちの感情を興奮させるといった行為は、日頃、毎日のように学生と接している大学の担当の講師が話すよりも、いつもはいない学友部で立場のある人や、他の部門から招かれてきた人が話すほうが、より効果的だと、講師の人たちが話していました。いつも話をしている人から言われると、学生は「またあの話か」と聞いてしまいますが、日頃あまり会わない人や、立場のある人から言われると、感情的に大きなショックを受けるのではないでしょうか。

私は学生時代幹部でしたので、担当講師の人から、「今度、○○講師が来て下さるが、自分の地区や大学のことで、何か言ってもらいたいことはないか?」と聞かれたものでした。

奥の深さの強調

宗教的な破壊的カルトの場合には、教義の奥の深さ、高度性を強調される。被勧誘者がある程度、協議に魅力を示し、また理解してからも、さらにまだまだ高度なレベルがあり、ずっと学んでいかなくてはならない、もっと修行をしていかなくてはならない、と強調される。

私の調査でも、ほとんどの被勧誘者は、常に「疑問は勉強してゆくうちに分かる」などと言われ、疑問を保留にされていることを確認している。

これによって、破壊的カルトは常に教義の矛盾をかわすことが出来るようになるし、被勧誘者の教義への興味を常に引きつけておくことが出来るようになる。つまり、何かしらの被勧誘者が腑におちない点に出くわしても、「これはまだ、自分が未熟であるから」という解釈を自らが行ない、集団へのさらなるコミットメントが高まることになる。

(『マインドコントロールとは何か』P170,171)

親鸞会には「教学試験」と言われるものがあります。これは、教義を学ぶ上で、たくさんの試験が行なわれ、それぞれ、合格していくと、「学階」(教学の段階)があがります。下から、「導師」「大導師」「講師」「大講師」「学師」(それ以上もあります)と言って、段階に分けられています。親鸞会の教義をある程度、理解してからも、まだまだ高度なレベルがあり、ずっと学んでいかなければならないのです。

また、親鸞会では「教えの理解が足りない」「教学力がない」ということもよく言われます。教学講義などで高森会長の話に矛盾を感じたり、疑問を持っても、「君はまだ教えの理解が足りないからだ。もっと先生の御著書を読んで勉強しなければならない」となるわけです。

これにより、会員の心の中に、様々な疑問が起きても、「自分が分かっていないだけなのかなぁ・・・」「こんなことを思う自分が悪いのかなぁ・・・」といった感情が起き、疑問が保留状態となっても、そのまま活動を続けるように思います。

実践の優先

私の事例研究では、10代の終わり頃から、20歳代で破壊的カルトのメンバーになった人の多くが、最初に勧誘話を聞くことになったきっかけは、一般的な意味での教養が身につくといった期待性が高く、いつでもやめられるつもりで、勧誘者の「些細な要求」に応じたことを示している。

たとえば、「話しを聞くだけなら…」「会場に行くだけ…」「ちょっとだけ体験してみるだけ…」といった、常にこうした些細な要請に応じることの繰り返しがある。この些細な承諾の積み重ねが、いつの間にか被勧誘者を遠い所まで連れていくのである。

破壊的カルトは「やっているうちに分かる」というセリフを多用しながら、勧誘する場合が多い。「分かってからやろう」という理屈で拒絶しようとしても、「今やらないと、危機に間に合わないかもしれない」「いつもそうやってチャンスを無にしてきたのではないか」と強調してくる。

(『マインドコントロールとは何か』P171)

「些細な承諾の積み重ねが、いつの間にか被勧誘者を遠い所まで連れて行く」とありますが、親鸞会では、勧誘の当初、「親鸞会」とも「宗教法人」とも言いませんので、勧誘された新入生の中には、最初は「大学の情報が得られるから」「教養が身につくかもしれないから」「他のサークルは、4月中は本格的に活動していないといわれるので、ちょっと話しを聞いてみようか…」といった些細な理由で、親鸞会のサークルに足を運ぶことが多いように思います。

しかし、次第に、「毎日の部会への参加」「新勧合宿への参加」「高森会長の法話への参詣」「親鸞会への入会」というハードルを設定され、その都度、乗り越えてゆき、親鸞会の活動にのめりこんでゆくのだと思います。

そして、親鸞会では、「実践すること」が次第に強調されます。最初の頃は、とにかく毎日の部会で同じようなことを、何度も何度も繰り返し聞くことになります。そして、もう少し進むと、「ある程度、親鸞会の教義に納得し、かつ、それでも疑問はある状態」になります。すると、講師や先輩たちは「頭だけでは分からないので、教えの通り実践してみよう」「実践して初めて分かるから」と言い、「実践の大切さ」が強調されます。

実践の大切さについて、以下のような高森会長の言葉もあり、講師部員もこのような言葉を持ってきて、何度も何度も実践の大切さを強調します。

実践は宗教の生命です。実践の脈々たる生命を失った宗教は、朽ち果てるより途はないのです。

(『親鸞会結成30周年記念大会』での、高森会長の言葉)

私は「三世を貫く因果の道理」について、「絶対に間違っている」とも言いませんが、「それが大宇宙の真理で、いつでもどこでも成り立つものだ」とは、到底理解ができません。これは人間には真偽を確認することが出来ない理論です。「因果の道理は大宇宙の心理である」との思いは、一つの宗教的信念であり、「宗教的信念は、真偽を決定することはできません」と、親鸞会発行の『人生論対話』にもある通りです。

ですから、「三世因果の道理」に従って教えられている「死後、地獄におちる一大事(後生の一大事)」も「絶対に間違いだ」「親鸞会はおかしい」とは言いませんが、必ずしも「正しいことである」「大宇宙の真理だ」などとは、私には理解できません。「そうなのかなぁ…」と信じることは可能ですが、それは宗教的信念によって、「正しいと思い込み、信じる」のであって、真偽など分かりません。

ですから、なぜ「親鸞会の教義を、大宇宙の真理だ」と理解して、親鸞会の活動に没頭できるのか、私には分からないのです。もちろん、私もこれまで親鸞会の幹部として、10年以上もの間、活動してきた訳ですが、そのようなことを出来たのは、様々な周囲の影響を受けて、「親鸞会の言うことは、正しいに違いない」と信じていたからに過ぎません。

学友部の活動の中では、講師部員も幹部の先輩も、「親鸞会の教えは大宇宙の真理だ」と言う人は多いのですが、新入生の頃の私には、「なぜそう言えるのか」、よく分かりませんでした。ですから、いろいろ質問をし続けていました。しかし、決まって「実践してみなければ、真実だと知らされることもない。君はそうやって頭をこね回すのではなく、もっと日常生活の中で実践しなさい」と言われたものでした。

しかし、教義への疑問があるままで、明確な回答もなく、「よし、実践しよう」という気持ちには、なかなか、なれませんでした。ですから、何度も質問を続けていました。しかし、結局最後は決まって「実践しなさい」「体にかけて実践することが大事なのだ」と言われました。その結果、いつまでたっても、「なぜ、三世を貫く因果の道理が、いつでもどこでも成り立つ大宇宙の真理だ、と理解できるのか」が分かりませんでした。

親鸞会では、このように「実践の大切さ」が強調されます。高森会長の作った歌に「弥陀を殺すに刃はいらぬ、腐った頭で考える」というものがあります。その意味について、座談会で会員の一人が質問したところ、会長はまず「自分の頭が腐っていると思っている人はいません。(しかし、全人類の頭は腐っているの意)」と答えていました。これは、「私たち人間が、仏の智恵で説かれた仏の教えに対して、ああだこうだ、と考えてみたところで、分かるものではない。」ということで、「仏様の教えられる通り、実践すればいいのだ」ということです。

親鸞会では、教義的に「釈尊の教えを正しく伝えられた親鸞聖人の教えにしたがいましょう。それには、親鸞聖人の教えを現代で、ただお一人正しく伝えられている、高森会長の指示に『絶対無条件服従』しましょう」と教えられます。(もちろん、このような直接的な、露骨な言われ方はされませんが)先にあげた、「親鸞会講師部聖則」や、以前、親鸞会では「純会員」という制度が設けられていましたが、その定義は、以下のようなものでした。

高森先生を無二の善知識と仰ぎ、ご教導に無条件に従い、親鸞学徒の模範として、次の項目を実践する会員を純会員という

一、正御本尊を安置する。

一、正御本尊以外の礼拝対象物には、一切関わりをもたない。

一、一切の他の宗教や東西本願寺等と縁を絶ち、それらの宗教団体や個人に、
   寄付、奉仕活動など一切しない。 

一、本会の活動には積極的に参加する。

(浄土真宗親鸞会 純会員の定義)

親鸞会では、高森会長や講師部員の指示に、自分の考えを入れず、ハイと素直に従って実行する会員ほど、評価されていました。

「教えに従い、無条件服従することの大切さ」について、親鸞会ではよく以下のような話を聞きました。蓮如上人の言行録が記された「蓮如上人御一代記聞書」の192番目に、「蓮如上人が道宗というお弟子に向かって、ある時、『琵琶湖を一人で埋めなさい』と言われたところ、道宗は何の疑問や反発もなく『はい、分かりました』と答えた」という話しが引き合いにだされ、「このように仏教の先生が『やりなさい』と言われることに、『そんなことできるのだろうか』とか『できるはずがない』と疑問や反発をおぼえていては助かりませんよ、先生の言われることなら『出来ないと思うようなこと』も『出来るのだ』と心得なさいよ」と教えられています。この「蓮如上人御一代記聞書」の192番に、高森会長は「無条件服従」というタイトルをつけています。

また、以下のような高森会長の言葉もあります。

○思うだろう

釈尊はイダイケに出来ない善をなぜ、と思うだろう。イダイケが素直に取り組んだのは、「出来ないことを教えられるはずがない」と釈尊を信じたからである。丁度、「御一代記聞書」に蓮如上人が「何事も出来るとおもうべし」とあるように。

(高森会長から会員へのメッセージ)

高森会長は多くの言葉をメッセージとして会員にむけて作っており、これもその一つです。

この言葉について、学友部ではよく説明がなされていました。 「すすめられたことに対して、あれこれ理由を考える前に、素直に取り組まなければならない。イダイケ(昔インドにいたお釈迦様の信者)も素直に取り組んだだろう。それはイダイケが「お釈迦様が出来ないことをすすめられるハズがない」と信じたからだ。仏法を聞くときには、善知識(仏教の先生のこと)の仰せを深く信じて、その仰せのままに、実行しなかったら、この道を前へ進ませて頂くことはできないのだ」というものです。

この「無条件服従」の教えを、親鸞会の講師の人たちは力強く、熱一杯すすめるのですが、聞いている人からすれば、「なぜ、無条件服従しなければならないのか」という疑問は当然でてくるでしょう。

たしかに、仏教の教義として「仏の智恵でとかれたお釈迦様の教えに、我々人間が『ああだ、こうだ』と計らっていては、信仰は進まない」と教えられるのかもしれませんが、無条件に服従することが出来ず、疑問を持っている人に対しては、「無条件に服従しよう」と思えるところまで、しっかり質問に答えるべきではないでしょうか。

それを、質問に誠意をもって答えることもなく、「言葉は相対的なもので、説明するのは限界があるから」などと言い出したり、最後には結局「実践しなければ分かるものではないのだ」「なぜ仏教の先生の仰せにハイと従えないのだ」などと、疑問を棚上げにした状態で、「実践すること」だけを強調したり、とにかく実践することを強要するのでは、「本当にどんな質問にもこたえられるのかなぁ…」と思われても、仕方ありませんし、様々な問題が後で起きるのでは、と思えて仕方ありません。

この、親鸞会の教義上の「無条件服従」という要素が、会の方針に批判的な会員を処罰する、先に紹介した「会員粛清規定」などに反映し、事実上、会長や講師部員に対して、批判などできなかったり、疑問を持つことに強烈な罪悪感を感じさせることになっているのだと思います。

しかし、私は会の方針であっても、たとえば、先の学友部のマニュアルに掲載されている、新入生に対しての「引き離し対策」や「親対策」「兼部カット」といった行為は、明らかにおかしいと思いますし、また、勧誘の際に「親鸞会」と名乗らないことや、新入生に対して、講師部員や先輩が信心決定してもいないのに、「私は信心決定した」と言う、または、そのような誤解を受ける表現を使うことは、問題だと思います。

私の周りにも、親鸞会学友部のこういった行為に不信を感じている会員は、少なからずいました。ところが、実際には講師部員には、何も言えない雰囲気が蔓延していましたし、批判する会員は、講師部員から煙たがられたものでした。

<光法戦>

また「実践の大切さ」ということで、実践をすすめられたのが勧誘活動とともに、「光法戦への参加」ということがあげられます。光法戦とは、「親鸞聖人のアニメシリーズ」(全7巻)を訪問販売する活動です。ここ数年はあまり行なわれていないようですが、かつては、会をあげて大々的に行なわれていました。大学が休みになる夏休みや春休みといった期間に、全国光大作戦と言って、「九州作戦」「中国作戦」「北海道作戦」と言って、九州や中国地方、また北海道へ、多くの会員が出かけて、1週間や2週間、長い人は1ヶ月や2ヶ月の間、アニメの頒布活動に専念するというものです。

これは、何かの訪問販売活動をされた方なら分かられると思いますが、なかなか、自分の持っている商品を求めるお客様にはめぐり合えないものです。この親鸞聖人のアニメは1本1万5千円、7巻セットで10万円します。そのような高価なアニメですから、そう簡単に販売できるものではありません。私も、このアニメ頒布活動に何度も参加しましたが、訪ねても訪ねても断られ、肉体的にも精神的にも大変厳しかったのを覚えています。

学友部では、夏休みや春休みなどの期間を利用して、この光作戦に参加しよう、と勧められていました。講師の人たちからすれば、学生に対して、「地元でうじうじしていないで、いっちょ遠隔地にでかけ、思いっきり活動してきたらどうだ」と言いたかったのでしょう。実際に出かけた学生もたくさんいました。そして、大変厳しい活動に身をしずめてゆきました。

このような活動に没頭するとどうなるかと言いますと、まず普通の人なら、精神的に苦しくなり、「自分は一体、何のためにこんなことをしているのだろう」と弱い心が出てきます。そこで投げ出せばそれで終わりなのですが、その壁を乗り越えて活動に専念してゆくと、やがてその苦しい経験をしたことにより、「自分のやっていることに間違いはない」「いや間違いであってほしくない」という信念がより強固なものになってゆきます。多くの時間やお金、そして労力を費やして、このような苦しい活動を経験することで、「親鸞会の言っていることは正しい」「そうであってほしい」との期待や先入観といった思いはより強いものになってゆくのでしょう。

現在、学友部では、「全国作戦」といって、既存の組織のない大学へでかけて、勧誘活動を行なっています。京都の学生が「北海道大学」へ出かけたり、東京の学生が「九州大学」まで行ったりします。このような全国作戦や、光大作戦に長期間でかけた学生の多くは、たくましくなり、より信念の強い会員となるようで、このような活動が盛んにすすめられています。

アイデンティティーへの攻撃

破壊的カルトは、「自己否定しなさい」とか、「自分を神にささげなさい」さもなくば、「救われない」「幸せになれない」ととくことが多い。…したがって、勧誘者にとってみれば、この「自己ビリーフ」をしっかり受容させないと、被勧誘者を、提供した新しいシステムで完全にはコントロールできない。アメリカの破壊的カルトの研究者、カシュマンもこの点を強調している。…徹底的に今のままでは危機的状況を回避できないので、きれいさっぱり過去の自分とは決別して「生まれ変わる」ようにと威圧的に迫るのである。…つまり、被勧誘者は、ここにきてはじめて、犠牲を強いられるのである。それも、もはや後戻りの簡単ではない大きな犠牲であり、それまで、「いつでもやめられるから」という気持ちが、それ以後は「こうした現実なのだから、仕方がない」から「これしかない」に変わってしまう。

(『マインドコントロールとは何か』P172,173)

とにかく、親鸞会の活動にのめり込めばのめり込むほど、「自己否定」をしなければならなくなってきます。この「自己否定」とは、教義的には「後生の一大事(死後、地獄に堕ちる)という大問題は、人間の力で何とか出来るものではなく、阿弥陀仏の不思議なお力によってしか、解決の方法はない」というものです。誤解のないように言っておきますと、これは決して、「日常生活を送る上で、『何も考えない腑抜けになれ』『とにかく、文句を言わず従順になれ』と言っている訳でありません。

しかし、教義にそのような部分がある訳ですから、会員は「高森会長の話しを、自分であれこれ考えることなく、素直に受け止めなければ」という気持ちになります。それが教義のみならず、会の方針や活動の内容などにも及んでいるように思われます。会長の決めた方針や、講師部員の指示を素直に受け止め実行するのが、いわゆる「模範的な会員」であり、批判など出来ない空気があります。

また、そのような気持ちが自分の中におこってきても、「これは、親鸞会の活動がおかしいのではなく、こんなことを考える自分が間違っているのだ」と、罪悪感を感じるようになります。

上記の引用に「アイデンティティーへの攻撃」とありますが、最近読んだ、斉藤孝の本にも、「マインドコントロールはアイデンティティを奪う恐ろしい技術だ」と、以下のように書かれていました。

マインドコントロールは、一人ひとりの生きてきた歴史をふくみ込んだ「アイデンティティー」を根こそぎ奪って、人格改造をしようとする恐ろしい技術だ。これに引っかかると、自分を自分にしてくれている人間関係がすべて断ち切られて、戻る場所が奪われてゆく。これを、絶対に甘く見てはいけない。…マインドコントロールと教育は、一緒くたに出来ないものだ。マインドコントロールとは、一人ひとりのそれまでのアイデンティティーを剥奪するもので、教育は本来、アイデンティティーを育てるものだからだ。  

(斉藤孝『スラムダンクな友情論』P84〜88)

私は「親鸞会ではマインドコントロールが行なわれている」と断言する訳でもなく、また「親鸞会では、善良な会員の人たちを騙し、金儲けや人集めをしている」などと、言っているのではありません。しかし、10代後半や20代前半という、多感な時期の若者に、熱意からとはいえ、一つの主張を強要するようなことがあるならば、彼らの精神的な成長に大変な影響を及ぼすのではないか、と思うのです。

親鸞会の学友部員を子どもにもつ親御さんが、「親鸞会のことを話すと、息子(娘)が、人が変わってしまったようになる」と言われるのを、何度も聞いたことがあります。また、ある親御さんが、親鸞会の行事に参加されて、「全員、同じような顔をしていて怖かった」と言われていました。このような感想をもたれる人は、決して少なくないように思います。自己を否定し、同じようなことを思い込んで、同じような勧誘マニュアルを覚えて、同じことをしゃべり、人間味がなく、個性を失っているのでは…、と思われても仕方がないのかもしれません。

ここまでくれば、その後は、それほど難しい技術はいらないと思われる。

勧誘者は、教祖や代表などの組織のトップリーダーを絶対的権威者として中心に位置づけ、さらに構造化させ、リーダーが発するすべてのビリーフを、無条件に意味のあるものとして受け入れていくようにすすめる。ひとたび、その組織の思想を全部受け入れてしまうと、被勧誘者は、その組織の絶対的な権威者から発せられらというだけで、どんな内容であっても価値を生じるようになる。

(『マインドコントロールとは何か』P175)

こうして、「親鸞会の言うことは正しい」と信じて、親鸞会の活動に多くの時間やお金、そして労力をつぎ込んで、もう後戻りができなくなった学生は、「後生の一大事の解決」のために、自己を否定し、高森会長や、講師部の指示を疑うことなく受け入れるようになるのだと思います。組織の頂点にいる会長の発言や指示に、疑問や疑いのメスをいれるということは、真面目な会員にとっては考えられないこととなっています。「会長先生が仰ったことだから」「○○講師が言われたことだから」といった理由で、疑うこともなく受け入れて、より活動に没頭し、それこそ純粋に進んでゆくことになります。私自身も、幹部であった頃、そのような気持ちで、一心不乱に活動を続けていました。

親鸞会のつくったアニメ「世界の光 親鸞聖人」の第2部に、ご縁の浅い法然上人の弟子が出てきて、「あの人たちが言われるのだから、間違いなかろう」といって、教義的に間違った方向へ進んでしまう場面があります。親鸞会としては、おかしな者として描いているのでしょうが、ある後輩が「私たちも同じような気持ちで、会長先生や講師の人の指示を受け入れているではないですか?」と言ってたのを思い出します。

できることならば、会員の皆さん、特に若い学友部の皆さんには、もう少し自分の力で考える力と判断力、そして意見をいう勇気をもってもらいたいものです。

なぜ私は親鸞会をやめたのか|マインドコントロールについて

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 1.親鸞会学友部の活動について
 2.最初の接触
 3.続けて聞くようになるまで
 4.マインドコントロールに気づきにくい理由
 5.勧誘活動における問題点
 6.問題の提示と解決への道
 7.親鸞会の教義を受け入れるまで
 8.自己否定と無条件服従
 9.なぜ批判を受け入れられないのか
 10.情報の管理
 11.感情の管理
 12.行動の管理
 13.最後に

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