なぜ私は親鸞会をやめたのか|マインドコントロール

親鸞会の教義を受け入れるまで

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親鸞会の教義を受け入れる過程

被勧誘者は、破壊的カルトが提供するビリーフ・システムにおいて、何か一つ魅力的なビリーフが生じて受容すると、その集団の提供する他のビリーフにも感心を抱くようになる。また、提供する側も、受容させたビリーフとの必然的な関連を説明してくる。そして、破壊的カルトは、少しずつ、被勧誘者の思考の作業場の真ん中のほうに、彼らの提供した全部のビリーフを集めさせ、セットとして「道具」を所有することの意義をアピールしてくるようになる。

被勧誘者の中には、一つが気に入れば、要請に応じて簡単に全部をまとめて受け入れてしまう人もいる。これは、物の売買において、商品をあらためずに、これまでの実績から、売り手を信じて購入するのと同じである。しかし、そんな簡単にいく人ばかりではない。

もちろん、被勧誘者は、破壊的カルトの提示する考えや問題解決法が本当かどうかを疑うであろう。その疑いをかわし、正しいことだと信じさせていくには、あるいは被勧誘者がそれまで抱いてきた確信を揺るがすには、「リアリティの構築」が必要である。つまり、彼らの提供するビリーフは、「現実」を正しく反映しているのだと感じさせること、そのための仕掛けがいくつかある。

(『マインドコントロールとは何か』P157,158)

親鸞会の教えを聞いた新入生は、最初から全部を納得して受け入れるのではないと思います。しかし、少なからず、自分が共感する部分があるから、「続けて話を聞こう」という気持ちになるのだと思います。以下、親鸞会の教義について、いくつかのキーワードをあげてみました。

・無常観…この世は常が無く、続かないものばかりである。どんな幸せも必ず色あせる。肉体さえも最後は死んで滅びてしまう。

・罪悪観…人間は体で悪を行ない、口で悪を言い、そして心では悪ばかりを造り続けている。

・因果の道理…善いことをすれば善い結果が、悪いことをすれば悪い結果が、自分のやったことは自分に結果が返ってくるのであり、これには一切、例外はない。

・必堕無間…無常の世の中で、悪しか造れない我々は、因果の道理に従って、死ねば必ず地獄に堕ちる。

・絶対の幸福…本当の親鸞聖人の教えを、生きている間に聞き抜く体験(信心決定)をして得られる崩れない幸せ。

「親鸞会の話を続けて聞こう」と思うのは、私自身もそうでしたし、多くの学生が、「教えのどこかに関心をもつ」からでしょう。親鸞会発行の「顕正新聞」によると、「文科系の学生は『無常観』、理科系の学生は『因果の道理』に感銘をおぼえた」とあります。

しかし、一方でよく分からない、納得のできない部分も多々あります。たとえば、「罪悪観」については、自分の心を眺めても、毎日の新聞やニュースを見ていても、「人間は悪いことばかりを考え、行なっている」ということは頷ける、しかし「無常観」については、幸せが崩れるといわれても、死と言われても、どうもピンとこない。また、人間必ず死なねばならないなど、当たり前ではないか、といった考えの学生も少なくないように思います。

また、私は教義の中では「無常観」には頷く一方で、「因果の道理」については「反証不能な因果の道理が、なぜ大宇宙の真理などと言えるのか」という疑問は、最後まで晴れませんでした。ですので、因果の道理から導き出される「必堕無間」についても、「なぜそれが絶対間違いないといえるのか」と思っていました。

しかし、新入生の頃、講師部員や先輩たちからよく言われたのは「最初から全部分かるものではないから、自分の分かるところをよく聞いてゆけばいい」といったことでした。私は「疑問が晴れなければ、他の話しも真剣に聞けないので、分かるように説明してほしい」と質問を繰り返していましたが、講師部員や先輩たちは「言葉で説明するには限界があるし、教えの通りに実践してゆけば、分かってくるものだ」と言い、最後まで納得のゆく答えは返ってきませんでした。

こうして、自分の頷ける話を手がかりに「そうか、そうか」と聞いてゆきました。そして、周りのみんなと歩調を合わせ、「新勧合宿」に参加し、高森会長の法話を聴聞しに出かけ、教学(教義の勉強)もするようにしました。すると、不思議なことに、もっていた疑問を次第に問い続けることを忘れてゆきました。そして、いつの間にか、親鸞会の教義の全てを受け入れるようになったのです。自分の中でも、疑問は常にあり続けましたが、その疑問を問うことをやめてしまい、これから説明してゆくような、様々な周囲の影響を受け、親鸞会の全てを受け入れる心が働いていたと思います。

ここで私は何を言いたいのかというと、上記の『マインドコントロールとは何か』の引用にもあるように、「被勧誘者の中には、一つが気に入れば、要請に応じて簡単に全部をまとめて受け入れてしまう人もいる」ということです。私は多くの疑問をもっていたにもかかわらず、その疑問を解消しないまま、講師部員や先輩たちの「分かるところを聞いてゆけばいい」との言葉を聞いているうちに、次第に自分の中にある疑問を問い続けることをやめてしまい、いつしか親鸞会の活動に没頭するようなりました。

私は幹部となってから、多くの新入生に接しましたが、それぞれの新入生が、親鸞会の教義の中で、特に共感をおぼえる部分をもっていました。私は、どの新入生が、どんな話の内容に特に強くひかれているのか、を把握していましたので、個人的に話す時には、相手の新入生に応じて、共感をおぼえる部分を強調したものでした。自分の話が相手の新入生の胸に深く突き刺さると、「もっと続きが聞きたい」と相手は思うようで、次回の約束は、比較的簡単にとれました。

あと、引用の中には「簡単に受け入れてしまう人もいる」とありますが、私は親鸞会のすべてを「簡単に」受け入れたのではなく、かなりの時間を要しました。しかし、以下に説明するような、「リアリティの構築」が働き、私も最終的には、親鸞会の教義のすべてを受け入れ、活動に没頭するようになってゆきました。

個人的リアリティの構築

そのための仕掛けの一つは、ビリーフが個人の体験に基づいているという感覚、あるいは論理にかなっているという感覚を与えさせることである。

(『マインドコントロールとは何か』P158)

「錯誤相関」という現象がある。それは、実際には存在しない関係を認知したり、あるいは実際の関係以上に強い関係を認知することである。人はランダムに起きている事象についても、すでにもっている信念を確認するデータとして誤って認知する。つまり、二つの事象に相関する関係があると信じるならば、その関係が誤りである証拠を確認する以上に、その関係が正しい証拠に気づき、記憶してしまう。

(『マインドコントロールとは何か』P159,160)

親鸞会の説く因果の道理は、三世(生まれる前の「過去世」、生まれてから死ぬまでの「現在世」そして、死んだ後の「未来世」)にわたって成り立つ大宇宙の真理である、というものです。ですから、今、不幸な目にあっているのは、過去世の悪い行いが原因だとも言います。私は生まれる前の過去世や、死んだ後の未来世まで含めると、とても「親鸞会の説く因果の道理は大宇宙の真理だ」とは理解できませんでした。しかし一方で、この世のことだけで言うと、「善因善果 悪因悪果 自因自果(善いことをすれば善い結果が、悪いことをすれば悪い結果が返ってくる、また自分の蒔いた種は、自分に結果が返ってくる)」とは、「まあ、世の中そういうものだろう」という程度に納得していました。(一切、例外のない真理などとは、思っていませんでしたが)

つまり、「親鸞会の説く因果の道理」には「理解できない部分」と「ある程度、納得した部分」がありました。しかし、毎日のように、「善因善果 悪因悪果 自因自果」と聞いていると、次第に「すべてが、本当にそうなのかなぁ」と思うようにもなりますし、また、親鸞会の活動のために、多くの時間やお金や労力を費やしていましたので、「親鸞会の説く因果の道理が真理であってほしい」という期待や先入観は、自覚のない部分でかなりあったと思います。

そうすると、何か善いことをした後、善い結果が返ってきたり、悪いことをした後に、悪い結果が返ってくると、「因果の道理は、やはり真実なのだなぁ」と思うようになります。善いことをしても、善い結果がかえってこなかったり、悪いことをしても悪い結果がかえってこないような場合があっても、「因果の道理に反すること」よりも、「因果の道理に合致すること」がより強く自分の中に残り、「やはり、毎日聞かされていることは、正しかったのだ」と思うようになりました。

こうして、多くの疑問を抱えていた「親鸞会の説く因果の道理」も、次第に自分の中で「やはり、講師の人や先輩の言う通り、大宇宙の真理なのでは・・・」と思うようになってゆきました。

社会的リアリティの構築

人はふだん、自分の周りの他者がどのようにふるまっているのか、どのような考えをもっているのか、あるいは、どのように感じているか、ということも含めていいのだが、それらを参考にして、自分の行動を決定することがよくある。つまり、私たちの行動とか、判断というのは、他の人のそれに非常に影響されている。

(『マインドコントロールとは何か』P162)

破壊的カルトは、リアリティを構築させやすくするために、集中的接触による教化をおこなうことが多い。具体的には、勧誘者は被勧誘者を合宿に参加させ、その間、外部との連絡を認めないという方法を用いる集団もある。

つまり、勧誘者は被勧誘者を、それまでその人が信頼してきた人々や情報源から隔離し、孤立させ、一方的に自分たちの集団のメンバーばかりに接触する機会を増やす。そして勧誘は一人ずつが原則であり、友人や家族など、複数で接触してきた者であっても、バラバラにされることが多い。勧誘者は、仮に、複数の人々に向かって勧誘するにしても、被勧誘者間では話しをさせないように場所や時間を管理する。

場合によっては、勧誘者は「まだ、あなたは理解していないから」などと適当な理由をつけて、被勧誘者に口外させないように言いくるめることもある。カルトの元メンバーに対して質問した私の調査では、「家族や友人に、学んでいることを伝えないほうがいいと指示されたか?」という問いに対して、「そうだ」が76.9%、「ややそうだ」が9.2%であった。両者あわせて86%をこえる。このようにして、伝道という目的をカムフラージュするだけでなく、集団外部へ一切の情報が漏れないようにしている。その結果、外部からの妨害は少なくなると予想される。

 (『マインドコントロールとは何か』P163,164)

親鸞会学友部の活動の中には、合宿が数多くあります。入学の約1ヶ月後、ゴールデンウィークに行なわれる「新勧合宿」や、夏休みに行なわれる「夏合宿」、年末に行なわれる「冬合宿」、年が明け、大学の試験が終わる2月半ばから3月にかけて行なわれる「春合宿」をはじめ、その他にも、秋や短い休みの間にも、小さな合宿が多々行なわています。特に新勧合宿と夏合宿は、5日間から1週間という、比較的長期間にわたるものです。

合宿に参加している間は、家族や友人から離れて、講師部員や先輩たちと寝食をともにします。朝から晩まで、「親鸞会は絶対に正しい」「親鸞会が間違っている筈がない」と信じている講師や先輩たちとばかり接することとなります。それらの人たちから、「親鸞会の教義の正当性」を繰り返し、強調されることとなり、その間、親鸞会の教義に対する批判的な意見は、一切入ってきません。

もちろん、最初の新勧合宿では「実家に電話もかけてはならない」と強制されるようなことはなく、むしろ、「毎日、両親に『元気にしている』と連絡するように」と徹底されています。それは、家族の方に不信を与えないためでもあります。他にも、家族の人たちに「合宿で何をやっていたのか?」と聞かれても、上手く答えられるように、専用の資料も渡されます。それは、「親鸞会の教え」とは直接関係のない「上手な勉強のやり方」「健康管理について」「手帳のつけ方」などなど、先輩たちが自分の得意な「聞いて得する情報」を話す「分科会」と言われるもので、そこで使われる資料が新入生に渡され、「家族の方から何か聞かれたら、これを渡せばいい」と指導されています。

また、新勧合宿では講義だけでなく、スポーツ大会や、カラオケやゲームを行なう交流会なども設けられています。これらのレクリエーションは昔に比べて、比較的数多く行なわれ、活動が柔軟になってきていることは事実です。親御さんからの苦情や、反対を警戒してのことと、年々、変化する新入生の気質に対する対応でしょう。

しかし、合宿に参加している間は、親鸞会への批判的な情報は一切入らない、と言ってもいいでしょう。その間に、「高森会長の法話への参詣の決意」や「親鸞会への入会」を勧められます。地域や大学によっては、必ずしもそうではありませんが、長期の合宿で、何かの決意を迫られることは多いように思います。私は講師の人から、「合宿中にすすめるのと、地元に帰ってから部室ですすめるのとでは、その環境は大きく異なる。だから、できるだけ、合宿中にすすめきるのがいいんだ」とよく、言われたものでした。

私が幹部であった頃、「エンドレス座談会」と言われるものがありました。5日間ある合宿の3日目か4日目くらいに、希望者に対して、夜を徹して語り合うというものです。(それ以外の日は、就寝時間は決まっており、睡眠時間は確保されています)その内容は「座談会」と銘うっていますので、質疑応答から始まることが多いですが、次第に「サークルをやめることへの説得」や「親鸞会への入会」を勧めることもよくありました。夜2時、3時までかかって、入会を勧めきったことも1度や2度ではありませんでした。

上記の『マインドコントロールとは何か』の引用にもあるように、「被勧誘者間では話しをさせないように場所や時間を管理する」といったことが、親鸞会学友部の中でも行なわれています。勧誘のマニュアル「親鸞会必殺育成法の巻」に詳しく書かれていますが、新入生同士をなるべく近づけさせない「引き離し対策」といわれるものそれです。最初の頃は、新入生同士が集まっても、前向きな話しはあまりなく、サークルについての批判的な意見の言い合いや、サークルをやめる相談など、講師部員や先輩たちにとっては、後ろ向きな意見しかでないので、できるだけ、最初の頃は、新入生だけで話をさせないようにしよう、といった対策です。

具体的には、以下に一部を引用してみます。

・同じ予備校の出身者はくっつけない
・同郷のものはくっつけない
・同じスポーツをしていたものはくっつけない
・同じジャンルの音楽が好きなものはくっつけない
・同じ所に住んでいる人はくっつけない

2人以上の新入生がくっついて、余計に良くなるなら、離す必要はないが、それは稀である。大概、後ろ向きの発言の連発になる。そこで、大学の規模にもよるが、引き離し対策ができるかどうかは、成果の大きな要素になる。

・部会時の引き離しを完璧にする。〜詳細は略〜

・ゼミの後、帰すタイミングも微妙にずらしながら。

どうしても、上記のような面々が一緒になってしまった場合、その場の先輩が気をきかせて、2人(あるいはそれ以上)が別れる最後まで、一緒に帰る。その際、自分のカバンも持ってゆき、アルバイトに行くなどの理由をさりげなく作る。

場合によっては、本当に帰ってもよい。そして、状況をその夜のうちに先輩に必ず報告する。口で「今回は○○君が引き離しに一緒に帰ってよ」などと言えないので、玄関近くで目で合図したり、「そういえば○○君は今晩、バイトだったね、そろそろ行ったほうがいいんじゃない?」などのサインを送ることがある。それを敏感に察知して、「そうね、じゃあみんな、折角だから、一緒に帰ろうか」と引き離しにゆかなくてはならない。それを、鈍感にも、「え?そんなことありませんよ」では、ぶち壊しである。  

(親鸞会 必殺育成法の巻 第5節「引き離し対策」より)

読んで頂けば分かると思いますが、親鸞会では、大学にもよりますが、講師部員や幹部の先輩たちが、こういった行動の一つ一つについて、とても詳細に指導をしています。

しかし一方で、このようなマニュアルを作ることには、異議もあったようです。文章化すると、あまりに露骨すぎる表現となりますし、また流出する恐れもあります。ですので、その危険性を考えられて、最近はあまりこのような文章化された、勧誘方法の具体的なマニュアルは少ないように思います。

また、この「引き離し対策」にしても、「新入生を引き離すこと」が目的ではなく、あくまで、その目的は「親鸞聖人の教えを伝えること」です。ここではマニュアルの一部しか引用していませんが、そのようなこともしっかり書かれています。以下に引用します。

・基本的には、「先輩と話をしたほうが、他の一年生と話すより楽しい。得をする。」と思わせる。その為に信頼関係を築くことが大事。(その後、「情熱」「清潔感」「さわやかな挨拶」「約束の大切さ」などが、細かく書かれています)

・目的は、引き離すことではなく、真実を伝えることである。

                  (親鸞会 必殺育成法の巻 第5節「引き離し対策」より)

ですから、どこかの悪徳詐欺師のようなものでは、決してないと私は思いますし、彼らは本当に相手の幸せを念じて、これらのことを行なっているのです。私自身もそうでした。しかし、彼らの価値観は「親鸞会の教義は大宇宙の真理であり、親鸞会で聴聞をしなければ、本当の幸せにはなれない」というものですから、それを理解しない人に熱意によって、自分たちの意見を強要することには、多くの問題を含んでいるように思います。
 
このような、詳細な指導によって行なわれる「引き離し対策」により、新入生にとって、他の同学年の人たちから「親鸞会への批判的意見」は入ってこなくなるのです。

数年前、ある大学で、親鸞会に批判的な意見を持った新入生が、他の多くの新入生と連絡をとり合って、多数の新入生が一気にやめてしまった、ということがありました。親鸞会学友部としては、そのようなことは何としても避けたいからか、「引き離し対策」をはじめ、新入生に「親鸞会への批判意見を聞かせないこと」は、大変重要な行為になっています。

「引き離し対策」以外にも、新入生に対して、「親鸞会への批判意見」を外部から聞かせないようなことは行なわれています。以下に「親鸞会 必殺育成法」に書かれた内容について、説明いたします。

<親対策>

新入生が親御さんの反対を受けても、その反対を乗り越え、「親鸞会の言っていることに間違いはない」という信念が固く築かれるまでは、「親対策」と言って、新入生が親から反対されないように、細かく指導がなされています。初期の段階で新入生がうかつに親にサークルのことを話さないように分からせるには、先輩は新入生にどのような話をすればいいのかについて、一字一句原稿まで作られている徹底ぶりです。

その内容はあまりに膨大なので、知りたい方は、以下のサイトを御覧下さい。

『親鸞会 必殺育成法 第7節「親対策」』

これも、親鸞会の立場でいえば、「本当は親にも親鸞会のことについて紹介し、話を聞いてもらいたい」のです。実際、このような親対策がなされる一方で、「サークルでどんなことをしているのか、知りたいという親御さんや家族の方がおられたら、是非、部室にお連れしたらいい」と言っています。学友部では、近年「親子部会」という親御さんを対象にした部会も、全国の大学で設けられています。そして、その結果、親鸞会に入会される親御さんもあります。

しかし、新入生の中に「親鸞会は正しい」という信念が固まらないうちに、親の反対を受けて、新入生がやめてしまわないように、「親対策」といったことを組織的に行なっているのです。

<兼部カット>

大学内に数多く存在する親鸞会以外のサークルに新入生が入ってしまうと、そのサークルの先輩たちから、「親鸞会への批判的な意見」が新入生に入ってきます。また、他のサークルの活動に関心がゆき、親鸞会の話しを熱心に聞くことがなくなってしまいます。そこで、新入生が他サークルに入らないように、また、関心を持たないように、「兼部カット」と言われる行為が行なわれています。

詳しくは上記のサイト『親鸞会必殺育成法の巻』の「第8節 兼部カット」を御覧下さい。

このように、様々な手法により、講師部員や先輩たちは、「親鸞会への批判的な意見」が新入生の耳にできるだけ入らないようにしているのです。

私は、これらの「批判意見を聞かせない」というやり方を組織的に行なうことは、おかしいと思います。多くの批判に耐え、一つひとつの批判意見にしっかり答え続けてゆくことが、親鸞会自身の為にもなることだと私は思います。しかし親鸞会では、批判意見にあまり耳を傾けることもなく、会員にそれらの批判意見が届かないようにする傾向があるように思えてなりません。

<ネット対策>

親鸞会の広報部門を担当している「弘宣部」では、インターネットの検索エンジンのシステムを逆手にとって、自分たちに批判的なホームページが検索結果の上位に出にくいようにしています。これらの「ネット対策」と呼ばれる行為も、学友部で行なわれている「親対策」「兼部カット」と性質的には同じだと私は思っています。そのようなことに力を入れるのではなく、正々堂々と、自分たちの意見を公言し、何事も隠すことなく、受ける批判には正面から答えてもらいたいと、願わずにおれません。

<会員粛清規定>

親鸞会には「会員粛清規定」というものがあります。それは、会に対する批判的な意見を言った人を処罰するという規則です。このような決まりがあり、高森会長や、会長の御心を私たちに伝えてくれる講師部の人たちに、批判意見を言うなどとんでもない、といった雰囲気があります。ですから、親鸞会では、一人ひとりの人間性は優しく真面目な人が多いという特徴がある一方で、自由に意見を述べる雰囲気がない、という特徴もあります。

(1) 支部長の指示に従わない。
(2) 講師部を批判する。
(3) 本会の機密を漏洩する。
(4) 本会の和を乱す。
(5) 本会の指示に対する批判的言動。
 (本会の指示、方針、通達、活動目標等を批判する)

(会員粛清規定 第3条(2)組織破壊行為 より)

会のやり方について、会員自身が「何かおかしいのでは…」と疑問思っても、声をあげて高森会長や講師部員に意見を述べるといったことや、会員同士で批判意見を述べ合うようなことは、ほとんどないように思います。

<講師部聖則>

また、親鸞会の講師部には、「講師部聖則」というものもあり、朝晩毎日唱和しています。その1番目と2番目は以下のようなものです。

1、親鸞会講師部は、会長先生の御指示に無条件で従い、信心獲得を本といたします。
2、親鸞会講師部は、上司の指示は会長先生の命と心得ます。

(親鸞会講師部聖則 より)

親鸞会と運命をともにする講師部の方々が唱和する聖則ですから、親鸞会の高森会長や上司の指示に対して、「無条件で従う」というのは、ある意味当たり前なのかもしれません。

しかし、その講師部員が学友部を指導していますので、目に見えないところで、学友部内にも、講師部内と同じような雰囲気があるように思います。講師の中には、比較的、学生の意見を自由に聞いてくれる人もありますが、そのような柔軟な人はごく少数だと感じます。親鸞会の批判意見に関しては、あまり耳を傾けないように思います。私の学生時代もそうでした。学生の幹部の中には、的を得た批判的な意見を言う人もいましたが、彼らの意見は、担当講師の人には、あまり受け入れられませんでした。「また、あいつが何かいっているのか」と言った感じで、あまり真剣に聞いていないような印象を受けました。

会長や上司の指示に無条件で従うと、毎日唱和している講師部員の指導によって、一切が動いている組織の中には、それらの講師部員の姿勢が学友部内にも、自覚もないうちに蔓延し、「批判は許されない」といった雰囲気があるように思います。

また、講師部だけでなく、学友部員などの一般の会員でも、親鸞会のサークルに勧誘され、中で話しを聞き続ける間に、様々な個人的リアリティ、社会的リアリティの影響を受け、親鸞会の教義に魅力を感じ、「親鸞会の教義は、大宇宙の真理だ」と思うようになれば、高森会長の言うことは、「全て正しい」「間違っているはずが無い」と思うようになると思います。

私も幹部であったときは、「高森会長先生の言われることに、間違いがあるはずが無い」と全く疑いもなく思っていました。もし、おかしいと思うようなことや、疑問に思うことがあっても、それは「高森会長が間違っている」のではなく、「自分の理解が間違っている」のだと、思うようになっていました。

私は新入生であった頃、当時のサークルの部長に、「もし高森先生がまちがっておられたら、どうしますか?このサークルの主張は、全て間違いとなりますよ」と聞いてみたことがあります。その時、部長は「そんなことは、あるはずが無い」と真顔で言っていました。私は、「ものすごい自信だな…なぜ、そんなことが言えるのか」と、その部長の姿に違和感を感じたのを、今でも覚えていますが、しかし、親鸞会で幹部となり活動していれば、当たり前の対応だとも言えます。

親鸞会のサークルに勧誘された新入生が、毎日サークルで話を聞き、合宿に参加し、やがて入会して、親鸞会に対する批判的な意見を聞く機会もなくなり、自分の周りは親鸞会に肯定的な人ばかりと接することにより、様々な社会的リアリティが構築され、「親鸞会が正しいに違いない」と思う効果は、非常に大きいと思います。

行動スタイル

勧誘者は、被勧誘者がいくら虚偽であろうと指摘しても、少しもひるまず、何度でも繰り返して同じ主張を述べてくる。そして、何度でも同じ主張を繰り返されるうちに、被勧誘者の心の中に、「ここまで主張するのは、やはり本当なのかもしれない、私が間違えていたかもしれない」といった疑問が生じてくる。  

(『マインドコントロールとは何か』P165) 

上記で述べたように、講師部員や一部の幹部の親鸞会に対する自信は大変なものです。大学入学間もない新入生が少々のことを言っても、微動だにもしません。そして新入生は、毎日毎日、親鸞会の教義を繰り返し聞き続けることになります。一般的に言って普通の人は、心から自信をもって言えることや、断言できることなどは、それほどないように思います。ましてや、18〜20年あまりの人生経験しかない、新入生にとってみれば、なおさらです。

ですから、自信一杯、断言口調で話しをしてくる講師部員や先輩に触れた新入生は、「先輩たちがここまで自信一杯、そして何度も何度も必死に言われるからには、正しいことに違いない」「やはり、自分が間違っているのでは…」と思うようになります。自分に対する自信が崩壊し、先輩への魅力を感じ、親鸞会に惹かれてゆくのだと思います。

権威

被勧誘者自身が得意としない分野の内容については、権威者からの情報という手がかりを見出すことができる場合、それにリアリティを感じてしまう。権威者とは、たとえば有名大学、有名人、マスメディアなどである。あるいは「科学」「科学者」という権威も用いられることが多い。もちろん、これらは本当の権威者である必要はなく、装うだけでよいし、破壊的カルトはそれを常に用いている。

(『マインドコントロールとは何か』P165)

 「一時的なマインドコントロールの原理」の中の、「権威性の原理」の部分でも触れましたが、新入生が勧誘され、最初の頃に聞く部会の中には、歴史上有名な哲学者や科学者の有名な言葉が、数多く出てきます。講師部員は新入生に対して話をするとき、これらの言葉を効果的に使います。

また、先輩たちは「サークルのOBは、医師や弁護士など、社会の第一線で活躍している人が多い」と紹介し、実際にそれらの人が来て、講演を行なうこともあります。これらの権威に触れた新入生にとっては、「あのような社会的に権威のある人が言われることだから、正しいことなのかも知れない」という思考が働き、親鸞会に関心を示すようになると思います。

多数者の影響力

人は、ある意見に対して多数の人が妥当、あるいは正しいと信じていることに強く影響されてしまう。破壊的カルトの勧誘でも、被勧誘者は、出くわす人すべてから、まったく同じことを聞かされる。あるいはまた、確信のもてない被勧誘者には、複数で囲んで熱心に講義する。

(『マインドコントロールとは何か』P166,168)

勧誘された新入生は、毎日サークルに顔を出すようになり、講師部員や先輩たちによる「引き離し対策」「親対策」「兼部カット」の影響を受け、「親鸞会は正しい」と主張する人たちと多くの時間を過ごすようになります。

また、新勧合宿のような、外部から「親鸞会への批判的な情報」が入ってこなくなる環境では、特に、周りの影響を強く受けると思われます。周りのみんなが真剣な顔で講師部員の話を聞いているのを見たり、また、熱心に親鸞会の教義の正当性を主張している先輩たちに触れ続けていると、「やはり、親鸞会の言っていることは正しいのでは」と次第に思うようになります。このように、勧誘された新入生は、次第に「多数者の影響力」を大きく受けるように思います。

もちろん、これらは講師部員や先輩たちが、積極的に意図したものではなく、自然とそのような状況が発生しているのでしょうが、以下のような「多数者の影響力」を積極的に駆使している部分もあります。先にも書きましたが、新勧合宿の参加をすすめる時に、「周りのみんなも申し込んだから、君も申し込まないか」と、直接言わなくても、すでに申し込んだ新入生の姿を見せることによって、まだ、申し込んでいない新入生に対して、無言の圧力で「みんな申し込んだのだから、君も申し込まないか」と訴えることもあります。

とにかく、あらゆる手段を駆使して、講師部員や先輩たちは、「自分たちの中で善とされること」を新入生に積極的にすすめますし、また、これまでに述べた様々な周囲の影響を受けて、新入生は親鸞会の教義や活動を受け入れるようになると思われます。

あと、「多数者の影響力」について、以下のように述べられている部分もあります。

これは、ある社会心理学者の実験について書かれた部分です。どんな実験かと言うと、被験者の学生たちに、とても理解しがたいエッセイをいくつかに分類するという、非常に難しい課題を与え、あるグループには、「分からなければ、質問にきてもよい」と言い、また別のグループには、「分からなくても、質問に来てはいけない」という条件を設定しました。

すると、次のようなことがおきたそうです。

そうした結果、「質問にきてもよい」とした被験者グループでは、「他の人が質問にいかないのは課題の解決方法を理解しているからで、自分だけが課題を難しいと思っているのだ」と推論したという結果を示したのであった。そして、もう一方の質問できない被験者グループでは、多くの人が「みんな課題が難しいと思っている」と推論した。

つまり、実際には非常に難しい課題で、多くの人が困難を感じていたにもかかわらず、誰も質問にいかないのを見て、自分だけが分かっていないことに困惑し、恥ずかしく、質問にいけないという状況になってしまったのだ。そういう心理がみんなにはたらいて、現実には、誰も質問にいかないという現象が起こった訳である。

私が行なった研究調査でも、ある破壊的カルトの勧誘では、被勧誘者のそれぞれに、他の被勧誘者はみんな自分よりも真剣に講義を聞き、内容をよく理解しているという認知が相互に生じていたことを示している。この現象がリアリティを高めていったと理解されよう。

(『マインドコントロールとは何か』P169)

親鸞会では、勧誘した新入生に対して「質問大歓迎だよ」「遠慮なくどんな質問でもしていいよ」と言います。しかし、新勧合宿に参加し、高森会長の法話にも参詣し続け、学年があがってくると、なかなか質問しにくい状況が生まれてくるようです。「先輩なのに、こんなことも分かっていないの?」と周りに思われたくないので、なかなか質問できなかった、と言っていた人が、私の周りにもたくさんいました。

このような状況があったからこそ、稀に先輩になっても、新入生と同じように、分からないことを聞き続ける先輩がいると、「先輩なのによくあんな質問できるなあぁ」「素晴らしいなぁ」という評価を受けていました。そこまで質問できる勇気のある人はいいのですが、先輩になればなるほど、質問しづらくなる雰囲気があり、多くの人が、高学年になるほど、質問しるのが難しく、また恥ずかしいと感じていたようです。

それは、親鸞会学友部の活動の中では、先輩になればなるほど、「後輩に話をして当然」「先輩なら、後輩に聴聞の復習をすべき」という雰囲気があるからです。私の知っている人で、聴聞が終わったあと、一人で聴聞の記録をつけ復習をしていると、ある講師から、「なぜ君は後輩と一緒に聴聞の復習をしないのか?なぜ、後輩に話しをしないのか?」と問い詰められ、苦しい思いをしていた、と語っていた人がいました。

このような状況の中で、「先輩ほど質問しづらくなる」というのは、当然のようにも思います。私は分からないことを、分かったふりをする、またさせられるのではなく、分からないことは分からないと自由に言える雰囲気は、とても大事だと思います。特に宗教を純粋に信仰する上で、教義や活動について、疑問に思ったことを自由に聞ける環境は、非常に大切だと思います。

親鸞会では、講師部員も幹部の先輩も「質問大歓迎」「無理やり信じろとは言わない、疑問に思ったことは、遠慮なく質問してほしい」と言います。しかし、多くの人から聞いてことを考えると、実際の雰囲気は、なかなかそのようになっていないのでは、と感じました。口では言いませんが、一部の講師や幹部の先輩の中には、「この忙しいのに、今さらそんなことを私に聞くな。そんなことも分かっていないのか?」という気持ちが少なからずあるのではないでしょうか?

なぜ私は親鸞会をやめたのか|マインドコントロールについて

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 1.親鸞会学友部の活動について
 2.最初の接触
 3.続けて聞くようになるまで
 4.マインドコントロールに気づきにくい理由
 5.勧誘活動における問題点
 6.問題の提示と解決への道
 7.親鸞会の教義を受け入れるまで
 8.自己否定と無条件服従
 9.なぜ批判を受け入れられないのか
 10.情報の管理
 11.感情の管理
 12.行動の管理
 13.最後に

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