なぜ私は親鸞会をやめたのか|マインドコントロール

マインドコントロールに気づきにくい理由

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マインドコントロールに気づきにくい理由

今まで述べてきたような環境におかれた新入生は、徐々に親鸞会のサークルの内部に入ってゆくことになります。しかし、ここまで読まれた人の中で親鸞会の実際の活動に触れたことのない人は、「私は大丈夫だ」とか「他の人はこんなことに引っかかるかもしれないが、私には当てはまらない」と思う人も多いのではないでしょうか。

ところが、これまでに説明してきたマインドコントロールの影響は、「人間として自然に心の中に生じる感情」によるものが大きく、誰にでも起こりうる可能性があることだと思われます。これらを巧みに利用すれば、外部からの影響を与えられていることをごまかすことも可能です。

そうした特徴のいくつかを、以下に紹介したいと思います。

他者からの影響の過小評価

人は自己の以前の意見や感情をも、簡単に忘れることがあるという。すなわち、マインドコントロールする側からいえば、個人に他者から何らかの影響を与えられたということを忘れさせる、あるいは、気づかせないことに成功すれば、人は自発的で自由な意思決定の結果であると、自らを信じさせることになろう。

人は一般的に、人に説得されたとはあまり思いたがらない傾向があることを示している。破壊的カルトからの強い説得も、当人はそれをあまり認知しない傾向にあるといえる。つまり、被勧誘者は「考える」という行為そのものさえあれば、集中的にある特定の組織のメンバーとの接触を繰り返し受けていても、自分の意志だけで判断したのだと思いがちなのである。

(『マインドコントロールとは何か』P107)

私は新入生の頃、親鸞会の教えについて分からないことがあったり、合宿や大きな行事への参加に悩んでいると、多くの先輩に囲まれ、話しをされることがありました。先輩たちから説得されればされるほど、私は「説得されたから、教えに納得した」「説得されたから、合宿への参加をきめた」と思われたくありませんでした。私はあくまで、「自分で考えて、自分の意志によって、親鸞会の教義を正しいと選択し、合宿への参加を決めたい」と思っていました。

ですから、説得された結果、その影響をかなり受けて、親鸞会をよしとする選択を行なってきた訳ですが、自分では、「これは自分で論理的に判断して決めたのだ」と常に思っていました。

コントロール感の錯覚

人は実際にはコントロールできない事象を、コントロールできると認知したり、実際以上にコントロール可能であると認知することがある。

破壊的カルトの勧誘において、被勧誘者は常にコントロール感を過信し、いつでもやめて元に戻れると考えている。つまり、自分の意志次第で、どうにでも自由になれると思い込んでいることが多い。しかし、それは自己についての「コントロール感の錯覚」であり、状況の強い力が彼らを拘束していることに気づいていない。その力とは、たとえば一貫性であったり、返報性であったりする。人はこのような心理的な力によって、拘束されるために、ひとたびは破壊的カルトに接近してしまうと、もし、遠ざかりたいと思ったときには、相当の苦労が必要とされる。

だから、多くの人は「やってみなきゃあ、分からない。とりあえず、経験してみてからでも遅くはない」という軽い気持ちで接触してゆくが、それは非常に要注意なのである。入会した後、再び脱会しようと思っても、今度はなかなかやめることが出来ず、精神的にも物理的にも、数々の困難にあうことが多い。

(『マインドコントロールとは何か』P108,110)

私も、いつでもやめられると思いながら、親鸞会のサークルに毎日顔を出していました。また、先輩たちも「来るものは拒まず、去るものはおわず」と言っていました。しかし、実際には、サークル内での自分をとりまく環境の影響をかなり受けて、知らず知らずのうちに、親鸞会の活動にのめり込んでゆきました。

入会する前も、入会した後も、教えに対して理解できないことが数多くありましたが、結局、講師の人や先輩と話をしても平行線をたどり、「教えの通りに実践すれば、教えの正しさが分かってくる」といった説明を受け、疑問は棚上げのまま、最後は「教えの実践」を勧められたものでした。

また、自分が幹部となってからも疑問はありました。たとえば、「反証不能な因果の道理が、なぜいつでも、どこでも成り立つ真実だと言えるのか」と疑問に思っていました。そんな私に、同じような質問をしてくる新入生や、後輩もいましたが、私は彼らに「頭でこね回しても分かるものではない。教えの通り、実践すれば、体で知らされることだ」と話していました。私がそうであったように、後輩たちも、先輩の私が言うのですから、その言葉を受け入れて、教えの実践に取り組んでゆきました。正直、自分で言いながらも、心のどこかで「便利な言葉だなぁ」と思っていました。

こうして、教えの通りに実践し、多くのお金や時間、労力を、親鸞会の活動に費やしてゆきました。そうなると、「自分のこの努力が、間違いであってほしくない」「いや、間違いである筈がない」と後戻りできなくなってゆきました。

当時の私にとって、親鸞会をやめるということは、「今までつぎ込んできたお金や時間、そして労力も全て無駄であった」ということを意味し、「自分の選択は間違っていた」ことを、自ら認めることになります。ですから、なかなかそのようなことは出来ませんでした。そうなると、少々疑問が起きても、もう後には戻れなくなり、ひたすら前へ前へと進んでゆきました。今まで費やしてきた時間やお金、労力があまりにも大きかったからです。

なぜ私は親鸞会をやめたのか|マインドコントロールについて

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 1.親鸞会学友部の活動について
 2.最初の接触
 3.続けて聞くようになるまで
 4.マインドコントロールに気づきにくい理由
 5.勧誘活動における問題点
 6.問題の提示と解決への道
 7.親鸞会の教義を受け入れるまで
 8.自己否定と無条件服従
 9.なぜ批判を受け入れられないのか
 10.情報の管理
 11.感情の管理
 12.行動の管理
 13.最後に

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