なぜ私は親鸞会をやめたのか|マインドコントロール

感情の管理

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自集団の情報だけに注目させる

破壊的カルトのマインドコントロールでは、操作者はメンバーに自己や自集団に対しては好意的な感情を抱かせて、外部の集団に対しては、否定的な感情を抱かせるように方向づける。こうすることによって、破壊的カルトは、メンバーには常に自集団の情報だけに注目するように仕向けるのである。

(『マインドコントロールとは何か』P185)

まず、親鸞会のサークルに勧誘され、先輩たちと接するようになると、大変、親切な人たちだと感じる人が多いでしょう。実際に、私が学生であった頃も、「面倒見のよさでは、他のどんなサークルの追随も許さない」と、新入生たちに言っていましたし、先輩たちも後輩に心をかけるのに必死でした。

「新入生に、教え以外のことで、『こんなサークルには、もう来たくない』と思われてはならない」と講師からも指導を受け、新入生に対しては、非常に親身に接していたものでした。その結果、教えの理解がそれほど進んでいない人であっても、余程、他にやりたい事がなければ、先輩たちの親切な言動に好意を感じて、サークルに残ったものです。

逆に、サークルから一歩外に出れば、些細な心のすれ違いで傷つくこともある友人との関係や、また、厳しいバイト先でも人間関係、そして、なかなか本音の部分で分かり合えない家族関係と、否定的な感情も多々あるかと思います。(もちろん、これらは親鸞会が仕向けたものではなく、世の中そういうものなのでしょうが)

これは親鸞会だけではなく、どこの宗教団体など、ほとんど同じだと思いますが、共通の信仰、理念をもっている人たちが集まると、共感できる部分も多く、内部の人たち同士は、それなりの好意を抱くことでしょう。また、先輩からみれば、なかなか振り向いてくれない多くの学生の中で、自分たちに理解を示してくれる貴重な後輩たちですので、大事にするのでしょう。

このような周囲の状況により、親鸞会のサークルに勧誘された新入生にとっては、親鸞会のサークルは非常に居心地のよいところであり、それに比べると、外の世界は非常に厳しく、冷たい世界と受け止めるでしょう。

また、教義的にも、親鸞会は自分たち以外の一切の宗教や思想は間違っているものだと主張しますので、本願寺やキリスト教、また新興宗教の団体などの他の宗教団体には、嫌悪感を持っており、機関誌などでは他宗教、他宗派(特に本願寺)への批判記事が頻繁に掲載されます。それらの団体に所属する人に対して、あまりいい感情を抱いていないでしょう。中でも、親鸞会を批判するような人たちは、感情的に特に許せないのではないでしょうか。そのような感情から、自然と親鸞会のサークルの中にいると、内へ内へと固まってゆくのだと思います。

私は親鸞会をやめてから、親鸞会会員以外の多くの人たちと出会いました。親鸞会を批判する大学教授やカウンセラーの人たち、キリスト教の牧師、本願寺の僧侶など、親鸞会の幹部であった時には、あまり接したこともない人たちです。親鸞会の幹部であった頃、あったこともない、これらの人たちのことを、相当、嫌悪感をもって認識していましたが、実際に会ってみると、皆、人間味あふれるきさくな方々で、非常に親切な人たちでした。

ですから、感情の面でも、親鸞会にいた時には、様々な影響を受けていたのだと思います。

外的回避

破壊的カルトのメンバーは、常に被害者意識をあおられ、外部の集団が自分たちを迫害し、攻撃し、組織をつぶそうとしたりしていると考えるようにさせられている。

(『マインドコントロールとは何か』P185)

昔は親鸞会が表立って本願寺を激しく批判した結果、本願寺も親鸞会を激しく批判していましたので、その頃は「本願寺は親鸞会をつぶそうとしている」と思っていた幹部や会員も、少なくなかったかもしれません。しかし、今は本願寺も親鸞会に対して、積極的に批判をしているようではありませんし、完全に親鸞会を異端派扱いして、無視していますから、本願寺に対しては、親鸞会も被害者意識などは、ほとんどないでしょう。

今日ならば、親鸞会はインターネット上で多くの批判を受けていますが、もしかしたら、私の作成したこのようなサイトに対しては、「こいつらは、親鸞会の勧誘を妨害しようとし、親鸞会をつぶそうとしている」と被害者意識を持っているのかもしれません。

離脱の恐怖

破壊的カルトは、集団の外部にいると何か不幸や危険なことがあると生じるといった恐怖感、今しか機会がないという切迫感、自分の力ではどうすることも出来ないという無力感を与えることがある。

これによって、メンバーは情緒的な混乱状況に置かれる。そして同時にメンバーは、その自己破滅状況から、唯一の救いの主である教祖への依存心や忠誠心を高めるメッセージを提供される。事実上、行動の選択肢をなくしてしまうのである。これらの情緒的混乱が、信者に教義に背くような思考を生じにくくさせ、もし生じても恐怖ですぐに打ち消させてしまい、ビリーフの強化・維持に機能していく。これは「思考停止の技術」と呼ばれている。

(『マインドコントロールとは何か』P186)

親鸞会では、やめる人に対して、「君は後生の一大事の解決をあきらめるのか?」とか「君は地獄に堕ちてもいいのか?」などと言って、やめないように説得します。「後生の一大事」「地獄に堕ちる」といった言葉を突き付けられると、今まで真面目に信仰してきた親鸞会会員にとっては、「別に地獄に堕ちてもいいですよ」とは、思っていてもなかなか言えないでしょう。今まで親切にしてもらってきた、目の前の講師や先輩に、不真面目な人間だという印象を持たれてしまい、そのような印象をもたれたくないと思うのが普通の人間です。

「あなたは人生の目的を考えたことがありますか?」と聞かれると、真面目な人ほど、「そんなこと考えたことないですよ」と、答えにくいようなものです。真面目な人なら、「こいつは、人生について何も考えていない人間だ」と思われたくないものでしょう。

今まで、自分に対して親身になってくれ、親しくしてきた講師部員や先輩から、情熱一杯、「君は後生の一大事という人生最大の問題をあきらめてしまうのか?」「君は本当に地獄に堕ちてもいいのか」と言われると、感情的に断れない人が多いのではないでしょうか。

親鸞会に対する批判の中に、「親鸞会は地獄に堕ちると言って脅す」といったものがあります。それに対して、高森会長が座談会で答えたことがあります。その答えとは、「闡提(せんだい)」という言葉に対する説明でした。

「闡提」とは仏教の言葉であり、涅槃経には『死骸のごとし』と説かれており、「自分はまだまだ死なないと平気でせせら笑っている心」のことです。肉親や知人の死を聞くと、驚いて同情の涙を流すこともありますが、本心では、自身の死について、蚊が刺したほどにも驚いていない、そういった私たちの心の奥底にある本心です。「地獄と聞いても驚かず、極楽と聞いても喜ばない心」などとも表現されています。

座談会での会長の答えを、かいつまんで言うと、「人間とは『地獄に堕ちる』と聞いても、100円落としたほどにも、驚かないものだ。だから『親鸞会は地獄に堕ちると言って脅す』と言うものがいるが、驚くどころか、驚かないのが、我々人間の本性だ。」といったものでした。

しかし、実際に親鸞会をやめようとした人や、親鸞会の会員と話しをした人が、親鸞会の人たちから、「地獄に堕ちてもいいのか」などと言われたことによって、そのような批判が出てきたのであり、言われた人にとってみれば、「地獄に堕ちるぞ」と脅されたとしか思えなかったのだと思います。そんな嫌な思いをした人が実際におられて、そのように言われているのではないでしょうか?

たしかに、普段の日常生活に戻れば、我々人間は、「死」について思いをめぐらすこともなく、「地獄に堕ちる」とも、「明日死ぬ」とも思わず生きているのが実態かもしれません。しかし、親鸞会の講師や先輩から、「君は親鸞会をやめて、後生の一大事の解決をあきらめるのか」とか、「地獄に堕ちてもいいのか」などと言われて、非常に嫌な思いをした人、精神的に追い詰められた人が、実際におられたということです。私も幹部であった頃、そのような声は聞いていました。

なぜ親鸞会は、そのような人たちの気持ちを受け止めず、教義的な理屈だけをふりかざして、自分たちの正当性ばかりを主張するのか、と私は思うのです。

今日、情報化社会となり、誰でも簡単にインターネットで情報が得られるようになった今、親鸞会はインターネット上でも、多くの批判を受けています。しかし、それらの批判に対しても、親鸞会の学友部では、1つ1つ取り上げて、教義的な解釈をもってきて、反論をつくり、講師部員が学生に徹底しています。なんとか、学友部員がやめないようにと必死なのでしょう。

彼らの気持ちも分からないでもないですが、実際に嫌な目にあい、苦しい思いをされている方々がいるのですから、それらの人たちの声に耳を傾けて、その気持ちを理解する努力も、是非してもらいたいと、私は切に願っています。

カルトのアイデンティティー

個人はカルトに入ることによって、社会的アイデンティティーを獲得する。つまり、個人が「非個人化」を起こして、所属する組織のメンバーとして自己を同一化することによって、自らが所属する集団である内集団と、それ以外の外集団どの区別が明確化し、内集団のみが社会的比較の源泉になると考えられよう。

自分たちだけが、特別な使命をもった選ばれたエリートであると考え、格別のこと(真理)を知った唯一の集団と信じさせるのである。したがって、組織の外部の人々を、知性が低く邪悪な者と軽蔑したり、そうした人たちではあるが、いつかはメンバーに加えてやって、救ってあげなければならないという使命を自認している。

(『マインドコントロールとは何か』P186,187)

親鸞会で勧誘活動をしたことがある人ならば、親鸞会会員がもっている使命感というものが、分かると思います。親鸞会の会員の人たちは、「真実知らされたのは、私たち親鸞会会員だけであり、世間の人たちは真実知らない不幸な人たちだ。だから、それらの人たちに一刻も早く、真実をお伝えしなければならない」とみんな思っています。 

先ほどあげた、以下の高森会長から学友部(昔の学生部)に向けられた言葉をみても、その期待ぶりや、この言葉を会長からもらった学生たちの使命感の高揚は大変なものだと、想像できるでしょう。

合掌 

いよいよ顕正戦。君らこそ、現代社会における唯一の正統な仏法者であることの大自覚をもって戦いにのぞんで貰いたい。君らの青春の謳歌は破邪顕正戦に凱歌をあげることである。健闘を念ずる。

(親鸞会発行ロータスP5『会長先生からのお葉書』) 

親鸞会会員は相当な使命感でもって、「親鸞聖人の御教えを、一人でも多くの人たちにお伝えしなければならない」と思っています。「自分たちが、腐敗した本願寺を倒し、真宗改革を成し遂げるのだ」と使命感に燃えています。上記の『マインドコントロールとは何か』の文章にもあるように、「自分たちだけが、特別な使命をもっている」「格別のことを知った唯一の集団」だと、疑いもなくそう思っている人は少なくないでしょう。

親鸞会学友部のサークルに勧誘された新入生が、やがて入会し、「他の人たちは知ることが出来なかった真実を、自分は知ることができた。これは大変喜ぶべきことだ。」と感じるようになると、使命感をもつ先輩たちと一緒になり、勧誘活動に勇ましく立ち上がるようになるでしょう。

親鸞会の会員の人たちは、外部の人のことを、「知性が低く邪悪な者」と軽蔑するようなことはないように思いますが、親鸞会の会員以外の一般の人のことを「真実知らない人たち」とか「世間の人たち」といった言い方をして、自分たちと区別しています。

なぜ私は親鸞会をやめたのか|マインドコントロールについて

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 1.親鸞会学友部の活動について
 2.最初の接触
 3.続けて聞くようになるまで
 4.マインドコントロールに気づきにくい理由
 5.勧誘活動における問題点
 6.問題の提示と解決への道
 7.親鸞会の教義を受け入れるまで
 8.自己否定と無条件服従
 9.なぜ批判を受け入れられないのか
 10.情報の管理
 11.感情の管理
 12.行動の管理
 13.最後に

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