なぜ私は親鸞会をやめたのか

5.本当にオープンなサークルか?

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本当にオープンなサークルか?

親鸞会のサイトで、以下のように言われています。

さらに、「みなさんのご両親で、聞きたい人があったら、どうぞ部室に来ていただいてけっこうですよ」とか、「本物かどうか確かめたい、という家族の方は、どうぞ講演会にらしてください」と呼びかけられてもいるようです。

実にオープンではありませんか。事実、そうして親鸞聖人の教えとご縁を結ばれ、高森先生の講演会に参詣されるようになるご両親も、数多く見受けられます。これらの方も、マインドコントロールされているのでしょうか。さすがに、そうは言えないでしょう。

最も問題だと言う点においてさえ、この人物の批判は、かなり現実と食い違っていますね。

(マインドコントロールとは何か?
「親鸞会で教えるマインドコントロールとは無関係な真実」について)

私が「最も問題だ」と述べた内容は、先に引用した通りであり、それは、「各大学のサークルと宗教法人浄土真宗親鸞会との密接な関係があるにも関わらず、宗教組織の名称をカムフラージュしている」という部分です。それについて、私が詳細にわたって説明した文章にはまったく触れずに、「部室に親御さんを呼んでいる」ということだけを挙げて、「実にオープンではないか」と述べているに過ぎません。親鸞会がここで「実にオープンではありませんか」と言っている事実は、「部室に親御さんたちを呼んでいる」という一点に過ぎません。

本当に「実にオープンなサークル」であるのなら、新入生に対しても、誰が聞いても分かるように、勧誘の一番最初に「仏教のサークル」「浄土真宗のサークル」、あるいは「浄土真宗親鸞会」と公言してもらいたいと思います。また、「引き離し対策」「親対策」「兼部カット」といった、批判意見を新入生の耳に入れないような情報操作を行わないようにしてもらいたいものです。本当にオープンな状態にして、様々な批判にも耳を傾け、そしてそれらの批判に耐えつつ、それでも「親鸞会に入会し、自分は親鸞会で話を聞き続けよう」という人たちを、育成してもらいたいと思います。

また、私が「親鸞会はオープンだ」ととても思えないことの一つに、「都合の悪いことには答えない姿勢」があります。親鸞会は最近発行した機関紙で、以下のように述べています。

親鸞聖人のみ教えは、演出やハッタリ、一時のお祭りムードで伝わるようなものではない。今日一日、目の前の人に、まず全力で伝え抜く。非難に耐え、誤解を解き、質問にはとことん答える。”こんな真実、世界のどこにもない、これは叫ばずにおれん”と相手が心から思えるまで、深く深く、真実の言葉を打ち込む。

(顕正新聞18年3月15日号 論説「心の荒野を開拓する」より)

顕正は、迷信との対決だ。はじめは鉄板に種を蒔いているように感じる。「お前、何考えとるんだ」と、ぼろくそに言われることもあろう。そこを、信念をもって話してゆく。議論がうねり始めてからが勝負だ。時間をかければ、相手の論理は必ず破れる。

(顕正新聞18年3月15日号 大喝「大事なのは熱だ」より)

「非難に耐え、誤解を解き、質問にはとことん答える」と言われていますが、私は親鸞会が「非難に耐え、誤解を解き、質問にとことん答える」という姿勢をとっているとは、とても思えません。私が公開した「なぜ私は親鸞会をやめたのか」の一連のコンテンツに対して、親鸞会が「『なぜ私は親鸞会をやめたのか』を読んで」、「『続・なぜ私は親鸞会をやめたのか』を読んで」といった反論サイトを公開しています。私はそれを読んで、多々、疑問に思うことがあり、親鸞会の意見を正しく理解したいので、疑問に思ったをサイトの管理人にメールで尋ねました。しかし、誠意ある回答はほとんどなく、最後は、「あなたの質問には答える必要性を感じません」と言い放ち、かたくなに無視を続けています。(詳細については、以下を御覧下さい)

「なぜ私は親鸞会をやめたのか|反響集」
『続・なぜ私は親鸞会をやめたのかを読んで』を製作された方へ

このような姿を見ても、とても「実にオープンな団体」だとは思えないのです。オープンな表向きの面がある一方で、都合の悪い質問には答えない、非常に「閉鎖的」で「不誠実」な団体と思われても仕方がないのではないでしょうか。

親鸞会の高森会長も、自らの書籍の中で以下のように述べています。

他を批判した以上、最後まで、その内容には、責任を負うのが、常識人のとるべき態度である。ところが、その常識を、公然と、じゅうりんしてはばからぬ、自称、仏法者が存在するのだ。

(『本願寺なぜ答えぬ』高森顕徹・著)

会長はこのように述べていますが、「なぜ私は親鸞会をやめたのかを読んで」の管理人の姿勢を見ていると、会長の言葉に照らし合わせる通り、「常識を公然とじゅうりんしてはばからぬ自称仏法者」としか思えないように思います。

ただ、親鸞会の言うように「学生の親御さんの中に、親鸞会に入会される方」がおられるのは事実です。親鸞会学友部の責任者も公の席で、以下のように述べています。

「学友部の、正御本尊ご下附式(親鸞会への入会式)に、これまでは学友部ですから、学生ばかりだったんですが、この頃は、学生のお父さんやお母さんが、学生に交じって参加しています。『なぜ生きる』などのご著書をご発刊いただいて、大きな変化が起きています。」

(平成15年3月10日 親鸞会「福徳懇親会」にて)

「福徳懇親会」とは、高森会長と一定額以上の献金をした会員が1泊2日で温泉旅館にゆく行事の中の一つです。ここに挙げたものは、その旅行の会食会の席での親鸞会学友部の責任者の言葉です。ここで言われていますように、学生の親御さんの中にも、「仏教の話が聞けてよかった」と喜ばれている方がおられるのも事実でしょう。私としてはむしろ、そのような親鸞会会員となられた親御さんに、私たちのサイトを御覧頂いて、親鸞会の裏と表をよく知って頂いて、親鸞会の改善すべきところが、本当に改善されてゆくように、親鸞会内で意見をのべてもらいたいものです。特に以下の内容についてのご意見を聞きたいと思っていますが、いかがでしょうか。

なぜ私は親鸞会をやめたのか|マインドコントロールについて

親鸞会必殺育成法

そのようなことが出来ないのなら、結局、親鸞会は裏のないオープンな団体という訳ではなく、あくまで、見せられる表の部分だけをみせて、「実にオープンな団体だ」と言っているに過ぎないように思います。本当にオープンな団体なら、たとえばマスコミの取材などがきても、こころよく取材に応じてもらいたいと思います。親鸞会学友部は、過去『宝島』の記者が取材に来たとき、それに応じなかったことがあります。近い将来、同じような取材を受けることがあるかもしれないのですから、今後は是非「オープンな団体」として、マスコミの取材にも対応し、遠慮なく取材に協力してもらいたいものです。

ちなみに、部会に参加されたり、入会される親御さんもおられ、それをもって「親鸞会が実にオープンな団体だ」と述べていますが、そのような親御さんはそれほど多くはありません。ごく少数です。親鸞会学友部の幹部の方で「そんなことはない」と言われるのなら、学友部員の親御さんの何割ぐらいが入会されていて、何割くらいが反対されている、またはそれ以前に親鸞会のことも話をしていない、などを是非、明らかにしてもらいたいと思います。子どもを縁として親鸞会に入会されるごくわずかな親御さんの中にも、子どもの退会とともに辞めてしまわれる親御さんも少なくないように思います。かつて、子どもの入会を機に、一家そろって入会され、家族親族一同で親鸞会で求めておられるような方もありましたが、結局、息子さんが親鸞会を退会されると、周りの人たちもほとんど退会されたようです。

あと、私が今まで意見を述べてきた、「なぜ私は親鸞会をやめたのか」、「続・なぜ私は親鸞会をやめたのか」、「なぜ私は親鸞会をやめたのか|マインドコントロールについて」といったサイトに対して、親鸞会は反論サイトを作っています。批判された内容に対して、反論することは、けっこうなことで、おたがい意見を述べあってゆきたいと思っています。ですから、私たちは積極的に各ページから関連する親鸞会側のサイトへリンクを貼って、多くの人に両方の意見を見比べて考えて欲しいと思っていました。

ところが、親鸞会のサイトには、ここ最近まで、私たちのサイトに対して、リンクは一つも貼られていませんでした。本当に「親鸞会は実にオープンな団体だ」と言いたいのなら、すぐにでもリンクを貼ってもよかったと思うのですが、親鸞会に対する批判意見を会員に聞かせたくないのでしょう。何度も催促した結果、ようやくリンクをはったようです。

また、直接、管理人にメールを送ったこともありますが、「あなたのサイトへのリンクも検討しておきます」と言いながら、その後、数ヶ月、何の返答もなく、無視し続けていました。また、サイトの内容で疑問に思うことを送っても、「あなたの質問には答える必要性を感じていません」との、まったく誠意を感じない返答に、正直、私は失望してしまいました。このような誠意の感じられない姿勢を見るにつけ、どうしても、親鸞会が「オープンな団体」とは思えず、「閉鎖的な団体」と思わざるを得ません。

また、たとえば親鸞会学友部では、組織の安定をはかるために、比較的大きな大学から、小さな大学にむけて、学生が派遣されています。関東、関西、東海などには、「拠点大学」と呼ばれる大学があります。関東なら、東京大学、早稲田大学、関西なら大阪大学、京都大学、東海なら名古屋大学といった大学です。拠点大学のサークルは、比較的、歴史が長く、親鸞会会員の人数も多いので、周辺の小さな大学にむけて、人材を派遣しています。ですから、周辺の大学の部長や幹部は、その大学の学生ではなく、拠点大学から派遣された学生なのです。

しかし、新入生に対しては、そのようなことを明らかにしていません。派遣されてきた学生も、外からきたとは言わず、あくまでその大学の学生であると言っています。なぜ、正直に「僕は○○大学からきているんだよ」と言わないのでしょうか。あとあとになり、「実は○○先輩は、この大学の学生ではなく、○○大学の学生だった」という事実が明るみになり、新入生に不信をあたえる場合も少なくありません。自分たちの組織を大きくみせるために、新入生に嘘をつくようなことはせずに、自分の大学くらい、正々堂々と名乗ればいいと思いますが、結局、「これだけの人数の先輩がいる」と新入生に思わせて安心させたいのでしょう。

しかし、そのような嘘をつくから、あとになって問題が起きるのではないでしょうか?親鸞会では、「一度、嘘をつくと、その嘘を隠すために、第2、第3の嘘をつかなければならないなる。そうして人間は嘘をつけばつくほど、幸せになるのではなく、苦しみの連鎖に陥ってゆくのである」と教えられています。人に言うくらいなら、自分たちも嘘をつかないように実践してもらいたいものです。これも彼らに言わせれば、「嘘も方便」なのでしょうか。私には自らの首を絞めているようにしか思えません。

私は大学生であった頃、創価学会や統一教会の学生組織に勧誘されたことがあります。彼らの中にも他大学から来ていた学生がいましたが、それらの人は正々堂々と自らの大学名を名乗っていました。今にして思えば、彼らのほうが親鸞会より、余程正々堂々と、オープンにしていたように思います。

多くの事実を述べて、「親鸞会は本当にオープンな団体か」と疑問をなげかけてきましたが、親鸞会学友部の幹部の人の中には、「何でも正直に言えばいい、というものではない」「何でも正直に言うのは、何も考えていない子どもであり、幼稚である」と思っている人もいるかもしれません。しかし、様々な部分で親鸞会がオープンでないことに、今まで多くの批判が寄せられ続けてきました。それにも関わらず、自分たちの都合を優先し、自分たちの中でしか通らない理屈で自らの正当性を押し通すのは、それこそ子どもであり、幼稚な姿勢であるのでは、と思ってしまいます。

親鸞会学友部のサークルは、たとえば、「聖書研究会」や「仏教哲学研究会」のように、おおよそ何を学んでいるサークルなのかを分かるようにすれば、「正体を隠している」などといった批判は、今後、それほど受けないようにも思います。各大学の親鸞会のサークルは、毎年のように名前がコロコロかわり、大学当局や自治会、また在校生からも、不信をもたれています。そのようなことはやめて、できればサークル名に、「仏教」「浄土真宗」「親鸞」といった、サークル活動の内容がある程度分かるサークル名にすれば、誤解を解くことができるのでは、と思います。

また、講師部員や親友部員、ビデオ講師といった親鸞会の職員が、自分たちの立場を詐称すること、他大学から来た先輩が、新入生に合わせて、偽った大学名や学年を名乗ることなどは、もうやめてもらいたいと思います。このように批判を続けられても、まだ、同じ行為を続けるようであれば、もう親鸞会には自浄能力がないのだと思わずにおれません。

あと、教義に関係することですが、親鸞会ではこのような指導もなされています。新入生が先輩や講師部員に向かって、「あなたは人生の目的を達成したのですか?」「信心決定したのでしょうか?」と聞くことがあります。そのような質問を新入生からされたとき、どのように答えるべきか、学友部では学友部の責任者である学友部長から、以下のように答えるべきだと指導されています。

※ここで言われる「信心決定」とは、親鸞会で言う「人生究極の目的を達成する事」です。

信心決定とは、そう簡単にできるものではない。高森先生も以下のように仰っている。

「噫、弘誓の強縁は、多生にも値がたく、真実の浄信は、億劫にも獲がたし。遇行信を獲ば遠く宿縁を慶べ」

(教行信証総序)

永久の闇より救われた親鸞聖人の驚きと慶びである。
五十年や百年や千年聞いて獲られる信心ではないから、たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べと教えてあるのだ。
「まだ獲信できぬのか」と言う自称信心の行者がいる。
「そんな程度の信心ならね……」と答えてあげねばならぬ。

(『独言』高森顕徹・著)


この心から言えば、「信心決定したのですか?」と聞かれれば、答えは「もちろん、まだだよ」となる。そんな簡単にできるものではないのだから。そこで、新入生には「もちろん(まだ)だよ」と答えればよい。新入生は「もちろん、(達成したん)だよ」と聞くかもしれない。しかしそれは、自分でそのように思うのだから、我々は嘘を言っている訳ではない。そして、その後に「君も信心決定できるから、一緒にがんばろう」と、新入生をはげませばいい。最初からこちらが「そんな簡単にできることではないのだ」と言って、「よ〜し、がんばって聞くぞ」と思う新入生がいる訳がない。このように答えればよい。何のわだかまりも感じる必要はない。

(ある日の学友部長の会合より)

おそらく、「先輩は信心決定したのですか?」と聞いて、先輩から「もちろんだよ」と言われた新入生は、ほぼ全員が「先輩は信心決定しているのだな」と思うでしょう。しかし、このような受け答えは、詭弁以外の何ものでもないように思います。このような指導が学友部の責任者の会合で、いまだに行われているのですから、もう嘘をついているという自覚すらないのでしょう。嘘をついているという感覚が麻痺していしまっているのかもしれません。

しかし、このような親鸞会での指導を聞くにつけ、どう考えても、嘘をつくことを奨励しているのであり、その理由付けも詭弁としか思えません。このような理解をするのは、果たして私だけでしょうか。このような指導を受けている人たちの中にも、「本当にこんな答え方でいいのだろうか…。これでは新入生を騙していることにならないか…」と思っている人もあるかと思います。

しかし、そのように思っても親鸞会の中では、そのような意見を述べることはなかなかできないでしょう。そして、会合で聞いた理屈で自分を言い聞かせ、活動に邁進するようになるのだと思います。疑問をもつと活動をやってゆけませんから、疑問を持たない方向に心が作用するのでしょう。これもマインドコントロールの影響ではないでしょうか。

多くの批判を受け続けながら、かたくなにその姿勢を変えようとしない親鸞会ですが、どうか、多くの人が迷惑していること、不快に思っていることを強く自覚して、今一度、自分たちの行っていることを見直してもらいたいと願わずにおれません。「『なぜ私は親鸞会をやめたのか』反響集を読んで」の中にも、以下のように書かれています。

正すべき点は、今後正されていくことと思います。
誰であろうが、違法行為や、他人に迷惑をかけるようなことをしてはならないのは、当然のことですから。

(『なぜ私は親鸞会をやめたのか 反響集』を読んで)

この言葉に期待しています。おそらく親鸞会の内部でも、「このままではいけない」「自分たちは多くの批判に対して、正すべき部分は正してゆかなければならない」という声はすでにあがっているかと思います。どうか、それらの良識をもった会員の方々の今後に期待しています。

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 1.親鸞会をやめてゆく若者たち
 2.親鸞会とマインドコントロール
 3.大学サークルにおける巧みなカモフラージュ
 4.「堂々と公言している」とは本当か?
 5.本当にオープンなサークルか?
 6.おわりに

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